八幡文庫とは? わかりやすく解説

八幡文庫(1904-1935)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 23:38 UTC 版)

近江八幡市立図書館」の記事における「八幡文庫(1904-1935)」の解説

1873年明治6年)には近江商人西川甚五郎 (11代)によって、八幡に奨風社文庫設置されている。蒲生郡隣接する神崎郡北五個荘村には、1901年明治34年11月1日神崎図書館開館した神崎図書館滋賀県初の教育会立の図書館であり、これに刺激され1902年明治35年1月には八幡町でも文庫開設計画立てられた。 日露戦争開戦後には一時的に計画中断したが、戦勝記念事業として文庫開設計画再開され1904年明治37年11月23日蒲生郡教育会戦時記念文庫「八幡文庫」が設置された。開設にあたって西川甚五郎図書12箱2,000余巻を寄贈しており、さらに町民から多く金銭図書寄贈があった。この際には「文庫商議委員会」が組織されており、これは今日図書館法いうところの図書館協議会相当する文庫開設時の八幡町は1,470戸・7,254人の人口有していた。日露戦争図書館または文庫建設引き金となったのは全国的な傾向であり、滋賀県では本図書館を含めて8館の日露戦争記念図書館設立された。当時は「戦時記念文庫」の設置一種流行見せており、滋賀県には日露戦争時のものを含めて26館もの戦時記念文庫開設されている。 開庫時の八幡文庫は為心町元蒲生郡役所内に置かれたが、1909年明治42年)には蒲生郡教育会立から蒲生郡立に移行し宮内八幡公会堂移転した蒲生郡役所時代利用者数は年間300人前後だったが、八幡公会堂移転後1909年には1,673人を記録し1910年明治43年)には3,516人、1911年明治44年)には5,395となった大正時代には年間10,000人を超えピーク1916年大正5年)には21,758人に達している。その功績評価されて、1922年大正11年)と1925年大正14年)には文部省から50円奨励金交付された。 1923年大正12年)には郡制廃止されたため、八幡文庫は再び蒲生郡教育会となった蒲生郡教育会時代には年間650円の潤沢な運営費得ており、滋賀県教育会図書館の中ではもっとも蔵書数が多かった

※この「八幡文庫(1904-1935)」の解説は、「近江八幡市立図書館」の解説の一部です。
「八幡文庫(1904-1935)」を含む「近江八幡市立図書館」の記事については、「近江八幡市立図書館」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「八幡文庫」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「八幡文庫」の関連用語

八幡文庫のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



八幡文庫のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの近江八幡市立図書館 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS