八幡文庫(1904-1935)
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「近江八幡市立図書館」の記事における「八幡文庫(1904-1935)」の解説
1873年(明治6年)には近江商人の西川甚五郎 (11代)によって、八幡に奨風社文庫が設置されている。蒲生郡に隣接する神崎郡の北五個荘村には、1901年(明治34年)11月1日に神崎図書館が開館した。神崎図書館は滋賀県初の教育会立の図書館であり、これに刺激されて1902年(明治35年)1月には八幡町でも文庫開設の計画が立てられた。 日露戦争開戦後には一時的に計画が中断したが、戦勝記念事業として文庫開設の計画が再開され、1904年(明治37年)11月23日に蒲生郡教育会戦時記念文庫「八幡文庫」が設置された。開設にあたっては西川甚五郎が図書12箱2,000余巻を寄贈しており、さらに町民から多くの金銭や図書の寄贈があった。この際には「文庫商議委員会」が組織されており、これは今日の図書館法でいうところの図書館協議会に相当する。文庫開設時の八幡町は1,470戸・7,254人の人口を有していた。日露戦争が図書館または文庫建設の引き金となったのは全国的な傾向であり、滋賀県では本図書館を含めて8館の日露戦争記念図書館が設立された。当時は「戦時記念文庫」の設置が一種の流行を見せており、滋賀県には日露戦争時のものを含めて26館もの戦時記念文庫が開設されている。 開庫時の八幡文庫は為心町元の蒲生郡役所内に置かれたが、1909年(明治42年)には蒲生郡教育会立から蒲生郡立に移行し、宮内の八幡公会堂に移転した。蒲生郡役所時代の利用者数は年間300人前後だったが、八幡公会堂移転後の1909年には1,673人を記録し、1910年(明治43年)には3,516人、1911年(明治44年)には5,395人となった。大正時代には年間10,000人を超え、ピークの1916年(大正5年)には21,758人に達している。その功績が評価されて、1922年(大正11年)と1925年(大正14年)には文部省から50円の奨励金を交付された。 1923年(大正12年)には郡制が廃止されたため、八幡文庫は再び蒲生郡教育会立となった。蒲生郡教育会立時代には年間約650円の潤沢な運営費を得ており、滋賀県の教育会立図書館の中ではもっとも蔵書数が多かった。
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