鉤裂きのように白梅咲きました
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春 |
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評 言 |
ある朝、一筋の曙光が射して、白梅の若木の、ときに緑色を帯びた枝に貼りついた小さな蕾が、ぽつと花弁を開いた。 「鉤裂き」の喩によって、梅花の白い一片の向こう側に、かすかに動きだした暁闇そのものの面体も浮かび上がり、反転して再び白い花弁が顕れる。 安全管理の工夫が進んだ昨今はあまり見かけないが、子供達があかぎれに泣いていた頃は衣服の鉤裂きも日常茶飯の事で、元気な子ほど、ズボンとその中身に裂き疵を抱えていた。 白梅自身はどうであろう。寒暁に命の小さな触手を伸ばして、ひりりと痛みを感じたろうか。 白梅―それは遣唐船で海を渡って来た。菅原道真ゆかりの有名な「飛梅」が白梅であるように、日本に初めて根付いたのは中国原産の白い野梅であったそうだ。『万葉集・巻五』には、大伴旅人が当時風雅の最先端にあった大宰府の自邸で山上憶良らと梅花の宴を催し、「もし文筆でなければ何をもって情がのべられようか」という詞書と、梅の花の歌三十二首を掲げている。 蕉門の人々が範とした『古今和歌集』「仮名序」に登場する〈難波津に咲くやこの花冬ごもりいまは春べと咲くやこの花〉の「さくやこの花」は、桜ではなく梅の花である。 蕪村臨終の〈しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり〉も忘れ難い。晩年に〈芭蕉去りてそののちいまだ年暮れず〉と詠んだ蕪村にとって、芭蕉が去って後の年はずっと暮れなかったのか。或いは蕪村の旧年が暮れて新年を迎えたとして、「しら梅」の空はその後、いったい何処へ展かれていったのだろう。 梅は中国の故事により「好文木」とも呼ばれるが、水戸烈公斉昭の詩「弘道館中千樹の梅/清香馥郁十分に開く/好文豈に威武無しと謂わんや/雪裡春を占む天下の魁」や、道元の正法眼蔵・梅華巻の「老梅樹の忽開華のとき、華開世界起なり。華開世界起の時節、すなはち春到なり。」(道元のこの語は、老梅樹の花が開いた瞬間、その瞬間に時節は春に変化する、という意味)にも白梅の気を感ずる。 掲句の白梅も、その清気の表出に於いて変わりはないが、「裂き」と「咲き」がもたらす開放の韻きと口語体の丁寧語を使った結句によって、伝統的な白梅の詩情にピュアな素の相を加えた。 歳時記に「紅梅」はあるが、「白梅」の項が無いのは残念だ。 |
評 者 |
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備 考 |
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