鉄道労連との対立
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1986年(昭和61年)7月18日、鉄労・動労・全施労に加え、国労の親動労系が脱退して結成した真国労を加えた4労組は合同で国鉄改革労働組合協議会(改革労協)を組織した。1987年2月2日には、これらは正式に合流して全日本鉄道労働組合総連合会(鉄道労連。会長は鉄労出身の志摩好達)を結成した。鉄道労連は雇用維持と余剰人員対応のため一時帰休、期間限定の派遣や出向、広域異動に協力したことから、JR全社で99%以上が採用された(不採用者は29名。残る1%の動労幹部組合員は、名目は不採用だったがJR子会社取締役になっているケースが多かった)。また、鉄産総連所属のJR採用率は低い会社でも80%前後であったとされる。民営化直前の2月2日、鉄道労連は結成大会で次のような「新会社の採用・配属に関する特別決議」を採択した。 本州の三旅客会社では、定員割れといわれている。このことが事実であるとすれば、国鉄改革に反対する不良職員が採用されかねない。しかし、このようなことは許されるものではないし、われわれは断じて許さない。(中略)新会社は第二次労使共同宣言の趣旨に沿って、まじめに努力した者によって担われるべきである。(中略)われわれの仲間たちが派遣や広域異動に応じたのに対して、汗も涙も流さぬ不良職員が現地で採用される、などということは絶対に認めない。(後略) すなわち、民営化のために一時帰休や期限付きの出向、広域異動に応じるなど協力した鉄道労連は、「正直者が馬鹿を見る」として民営化に反対し、何もしなかった職員(国労、全動労、動労千葉組合員)を定員割れになっても採用しないよう、要請したものである。2月9日、この決議は杉浦喬也総裁に手渡された。『日本労働年鑑』は、この決議について「『労働組合』による不当労働行為のすすめともいえそうな内容であった」と評した。動労千葉・国労などの組合員で、いったん採用が決まっていた者も改めて採用から外されたと動労千葉側は主張している。志摩会長は民営化後、「本来採用すべきでない人たち(国労・全動労組合員)を採用したのだから、この人たちを絶対に本務(本来の鉄道の仕事)につけないこと。もし本務についてドライバー(運転士)や車掌をやるといつストライキをやるか分からない」と発言した。JRは、国労組合員らをキヨスク・立ち食い蕎麦屋・パン屋などの店員、自動販売機の補充などに出向した者もいた。しかし、鉄道労連もJR本体が過員期間中は、いすゞ自動車や日産自動車などの他企業やJRのグループ会社に出向に行った組合員も多数いた。 国労・動労の過去の「悪行」(遵法闘争・上尾事件、ヤミ休暇、ヤミ超勤、酒気帯び勤務など)や労働運動において労使協調路線が広まったこと、日本最大のナショナルセンターである連合に加盟しなかったために他の労働組合の支援があまり得られなかったこと、分割民営化に反対しながら「分割民営化したJRに採用させろ」という支離滅裂な要求[要出典]に賛同者が少なかったこと、などを背景に、このような言動への批判は少数派にとどまった。採用基準は実際には国労・全動労・動労千葉を脱退したか否かが優先され、従業員個人の勤務態度は二の次であったと鉄建公団訴訟弁護団事務局長として、原告側の弁護人となった萩尾健太は主張している。国労組合員の異動についても労働委員会への異議申し立てを受け、一部は撤回した。ただ、JR東日本の例では、「ベンディング事業所」に一部の国労組合員(組合活動に熱心な者が特に狙われたという)を配置し、自販機補充などを行った。2005年2月1日になって、ほとんどの組合員は本務に復帰した。
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