鈴鹿社と田村社
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鈴鹿峠には式内社の片山神社(鈴鹿大明神)が、西麓の土山には田村神社が祀られている。『伊勢参宮名所図会』の「鈴鹿山」には、鈴鹿峠の鏡岩を挟んで伊勢側に鈴鹿神社が、近江側に田村明神が描かれ、「鈴鹿神社には片山神社、縣主の神社といった別名があった」と解説文に書かれている。 奈良絵本『すずか』には次のような一節がある。 鈴鹿の立烏帽子は鈴鹿の権現と言われ、東海道の守護神となって往来する旅人の身に代わって守り、この道を行く人はその身の災難を免れる — 『すずか』より大意 鈴鹿大明神は道祖神の性格を持っていたことが窺える。片山神社付近では祭祀用の小皿も多く出土していることから、鈴鹿峠を往来する旅人によって旅の安全を祈願して手向けられた峠神祭祀の遺跡と推定されている。 鈴鹿峠の鏡石(鏡岩)は磐座としての性格を持ち、京と丹波の境に位置する愛宕山の勝軍地蔵菩薩と同様に、田村将軍を将軍塚(将軍地蔵)とみなして祀ることで、鈴鹿権現と一対になった塞の神信仰が古くから存在していた。この信仰が後に田村語りとしてお伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』『立烏帽子』や奥浄瑠璃『田村三代記』で坂上田村丸を夫とし、共に高丸や大嶽丸など共に鬼神退治をする物語が編み出された。 鈴鹿姫への信仰は江戸時代まで続き、延享3年(1746年)の明細帳(徳川林政史研究所蔵)では坂下宿の氏神を鈴鹿大明神とし、幕府代官や伊勢亀山藩主の寄進を受けている。 当時さまざまな説が流布していたらしく、万治2年(1659年)ごろの成立とされる『東海道名所記』では、鈴鹿御前が天せう太神(天照大神)の御母と言いならわされていたことを記している。『勢陽雑記』には鈴鹿御前は天照大神の乙姫也という伝承が載る。 寛政9年(1797年)刊『東海道名所図会』では、 土山田村神社は神宝として田村将軍像や鈴鹿御前像を有し、祭神を将軍田村麿・嵯峨天皇・鈴鹿御前としている。現在は主祭神を坂上田村麻呂公・嵯峨天皇・倭姫命としているが、江戸時代には鈴鹿御前と倭姫命が同一視されていた様子を窺える。 内藤正敏は、鈴鹿御前や立烏帽子が田村麻呂の鬼退治の勝敗の鍵を握るのは鬼神と天女という両義的な性格をもち、天皇の祖神を祀る伊勢神宮のある伊勢国と平安京の境界の鈴鹿峠の神だからだろうとしている。
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