道南から道央を経て道北の増毛へ
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「北海道 (令制)」の記事における「道南から道央を経て道北の増毛へ」の解説
日本海側は太田、茂津田、雷電、積丹半島、雄冬などの難所があり、久遠(くどお)より増毛に至る間は陸上交通が完全に絶たれる場所が数箇所あったが、文化年間と安政以降に陸上交通が整備されている。以下、主な工事である。 太田山道と狩場山道 安政4年3月に起工、太田山神社のある太田山を中心にセキナイからラルイシ(良瑠石)までの12里(47.1km)を開削、継いで狩場山道に着手して須築(運上家が置かれたスツキ場所の中心)から島牧村原歌の辺り(コタニシ)に至る道を開削した。 雷電嶺 安政3年に磯屋場所請負人・桝屋栄五郎がアフシタ以西の一里あまりを開削、岩内場所請負人・仙北屋仁左衛門がアフシタ以東の2里(7.9km)余を開削した。雷電峠は磯谷・岩内両場所の境を越える道で、現在の国道229号の前身である。以前から山中に温泉が湧くことが知られており、通行の旅客の便をはかるため道の開通後は温泉に家屋を立て箱館在住の又兵衛を家守とした。これが現在の朝日温泉の前身である。 余市山道 文化6年に開削された岩内から余市に至る道で、稲穂峠がある大変な難所であった。この峠は現在の国道5号稲穂峠の前身である。その後荒廃したため、安政3年から翌4年にかけて改めて開削した。里程は12里20町(49.3km)余で、稲穂峠を挟んで岩内側の上横沢(ペンケシヤマチケナイ)と余市側の野沢辺(ルベシベ)に笹小屋が設けられ、通行屋を建てて宿泊することも出来た。安政5年8月には余市場所在勤の足軽・桐谷太兵衛の指導で余市運上家の方から岩内場所との境界まで至るノウチ沢通の新道を開削。この道は桐谷峠と呼ばれ、現在の道道豊丘余市停車場線から分岐する舗装路の前身である。 小樽-銭函間道路 小樽場所請負人恵比須屋半兵衛が箱館奉行に出願し、安政4年4月から9月にかけて自費で丘の上に新道約2里半(9.8km)を開削。翌5年4月、カムイコタン(神居古潭)からチャラツナイ(茶良津内)までの延長5町(545.5m)の海岸道路を数回に渡って開削し、数カ所の河川に架橋した。また、文久元年には許可を得て今の界町から港町に至る海岸に投石埋立法を施行した。この埋立地は道路以外を各希望者の宅地とし、各種の営業を行わせた。 濃昼山道と増毛山道 安政4年、厚田場所請負人浜屋興三右衛門は自費で濃昼山道2里24町(10.5km)を開削し濃昼川の南に達した。同年、浜益、増毛の両場所請負人伊達林右衛門もまた自費で浜益から増毛までの9里(35.3km)余の道・増毛山道(寛政8年との資料もある)を開削した。また増毛山道よりも海側には、古くから開削年不詳の雄冬山道もあった。そのほか濃昼・増毛両山道の中間に位置する送毛山道(オクリキ山道)の1里半(5.9km)余は岩内在住の柳川善蔵が開いたと伝わる。これらの山道は現在、海沿いの国道231号に切り替えられている。 日本海側ではこの他にも、寿都場所では場所請負人山崎屋新八内によっていくつかの道路を開削、積丹・美国両場所請負人岩田屋金蔵は現在の道道野塚婦美線・国道229号の前身である積丹場所日司より美国場所小泊に至る約4里(15.7km)の新道を開削、余市場所請負人竹屋長左衛門は余市から古平境界までの2里(7.9km)余を開削している。
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