運行の実情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:22 UTC 版)
前述のとおり動力化後には一応運行ダイヤが組まれ、産業用の内燃機関車で客貨車を牽引するようになったほか、一部の路線では自動車(バス)を改造した簡易な旅客車が運行されていた。太平洋戦争後に改良事業が行われた路線では小型ながら本格的な気動車も導入された。ターミナルとなる駅には駅舎などが整備されていたが中間駅はバスの停留所のような簡易なものであり、中には駅であることを示すものは何もない「駅」まで存在した(ほとんどの利用者が実情を知悉した地元民のみであるため、問題は生じなかった)。あるいは公式には駅とされていない箇所に停車して乗降を行っていた路線もあり、その運行実態は地元以外の者には理解し難いものであった。 在野の鉄道研究者である湯口徹は昭和30年代、道内の各地に点在する簡易軌道路線を巡って記録を残したがそれによれば簡易軌道の運行の実情は運輸省(現・国土交通省)の管轄下にある一般の鉄軌道では到底考えられないほどに大雑把なものであったという。その例を以下に挙げる。 簡易軌道では続行運転が日常的に行われていたが、これは熊対策のために列を連ねて奥地と町を行き来していた馬車時代の名残といわれている。閉塞の概念なしに続行運転を行うことは路面電車でも見られるが、法令によって最高速度が40km/hと決められている。しかしながら簡易軌道の場合、軌道法や地方鉄道法の制約を受けないため、湯口の実見例によれば例えば下幌呂で2方面に分岐する鶴居村営軌道では2つの行き先の列車が基準をはるかに超えた速度での続行運転を行っていた。 浜中村営軌道ではメーカーから納車された自走客車の試運転を定期列車の運行に全くお構いなく行い、その結果あわや貨物列車と正面衝突を起こしかけたこともあった(ちなみに、この試運転列車は貨物列車に道を譲る形で引き返し、そのまま40分遅れの定期列車として運行された。「念のために」本来の定期列車に割り当てられる列車がすぐ後ろを続行運転していたという)。 歌登町営軌道では廃線になった十勝鉄道から譲り受けた客車の連結器高と在来車のものとが合わないため、本来ならばどちらかの高さに合わせるように改造しなければならないところを連結器同士を繋ぐリンクをZ形に曲げ無理矢理に連結できるようにしてあったという。簡易なピン・リンク式連結器(朝顔型連結器)であるが故にできた芸当ともいえるが、強度面でのリスクから一般鉄道での日常的な営業運転では到底認められないような措置である。
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