通報と判決
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士官のドゥルッシェルとフンケ(Funke、2回目の哨戒でマイヤーに代わり次席哨戒士官を務めた)は、クッシュを通報しないよう求めるノートドゥルフトの言葉に応じていた。しかし1944年1月12日、アーベルはノートドゥルフトが阻もうと試みたにも拘らず、第3潜水艦教導師団への報告の中でクッシュ艦長を告発した。申し立てによれば、デーニッツ元帥の1943年9月9日の『批判癖と粗探しに反対する訓示』を執筆したカルス (Ernst Kals) 中佐の確認を受けた後、アーベルは通報を実行に移している。1944年1月24日の聴取で、彼はその通報を憎しみから書いたという嫌疑を否認した。 西部Uボート部隊指揮官 (Führer der U-Boote) のハンス=ルドルフ・レーズィンク大佐は1944年1月16日、「防衛力破壊、国家侮辱、残酷なプロパガンダ (de:Gräuelpropaganda) の流布」の容疑でクッシュの捜査を開始した。クッシュは1月20日、ロリアンで逮捕されアンジェの国防軍戦時刑務所へ移送される。公判は1944年1月26日、キールの潜水艦訓練部隊最高司令部にある法廷で始まった。選任されたクッシュの弁護士が、関連書類を閲覧する機会を与えられたのはその前夜のみである。 起訴状によれば、クッシュは戦時特別刑法 (de:KSSVO) 第5条第1項1および2、並びに非常時の電波政策に関する法令 (de:Verordnung über außerordentliche Rundfunkmaßnahmen) 第1条に違反した罪で告訴されている。同日の夕方、彼は「防衛力の継続的な破壊および外国放送の視聴」により、「懲役1年および死刑」を宣告され、同時に公権を剥奪された。これに対し、後からアーベルによって加えられた「敵を前にした怯懦」という批難は鑑定人の一人から、根拠を欠くとして退けられている。 1944年5月12日、オスカー・クッシュはデーニッツ元帥を含む上官が恩赦を却下した後、キールで銃殺刑に処された。一方、告発者のアーベル中尉はその3週間前に戦没している。1944年4月1日に「U 193 (U 193) 」の艦長に任じられた後、アーベルは艦や乗組員の全員とともに4月23日、ビスケー湾で撃沈されたのである。クッシュの処刑は公表されなかったものの、数週間後にはどこの士官食堂でも広く知れ渡っていた。クッシュのかつての部下はその間、彼の運命について何も知らされていない。1944年7月2日、「U 154」もアゾレス諸島の近海で撃沈された。
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