近代以降の鍋島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 22:41 UTC 版)
大川内藩窯は1871年(明治4年)の廃藩置県によってその歴史を閉じたが、鍋島の技法と伝統は赤絵町の今泉今右衛門家によって復興・継承されている。9代今泉今右衛門は廃藩置県の2年後の1873年(明治6年)に没し、10代今右衛門(1847 - 1927)は26歳で家督を継いだ。従来の鍋島焼では下絵付け・本焼きの工程は大川内で、上絵付けの工程は赤絵町でそれぞれ分業していたが、10代今右衛門は自ら登り窯を築き、成形、下絵付け、本焼きから上絵付けまで自家工房での一貫生産体制を確立した。11代今右衛門(1873 - 1948)は皇室御用品などを製作し、従来の鍋島の主力であった皿類だけでなく、近代生活に対応したさまざまな器種の製品を手掛けた。12代(1897 - 1975)は現代的デザインを取り入れた作品を作り、12代の時代に設立された色鍋島技術保存会は国の重要無形文化財「色鍋島」の保持者として認定を受けた。12代の没後、重要無形文化財「色鍋島」の指定は1975年にいったん解除されたが、1976年、13代今右衛門(1926 - 2001)を代表者とする色鍋島今右衛門技術保存会を保持団体として再指定された。13代は個人としても重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定されており、酸化ウランを呈色剤とする「薄墨」という技法を開発した。13代の没後、2002年には13代の次男が14代今右衛門(1962 - )が襲名している。14代は伝統を継承しつつ、近世以来の「墨はじき」の技法を深化させている。2014年、13代に続いて14代も重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。陶芸家としては最年少の人間国宝認定となった。 将軍・大名への贈答用高級品として作られ、一般に出回っていなかった鍋島焼が鑑賞陶磁として注目されるようになるのは大正期以降である。鍋島焼を紹介した最初期の文献とされるのは、イギリス人フランシス・ブリンクリー(1841 - 1912、軍人出身のジャーナリスト)が1901 - 02年に刊行した『日本と中国』(Japan and China: Its History, Arts and Literature)だとされている。物理学者・貴族院議員の大河内正敏(1878 - 1952)は陶磁研究家としても知られ、彩壺会という研究会を主宰。1916年(大正5年)に駿河町(日本橋)三越にて「柿右衛門と色鍋島」という展覧会を開催するとともに、同年同じく『柿右衛門と色鍋島』という題名の講演録を出版している。これは日本人によって書かれた最初の鍋島焼紹介書であり、功罪半ばするものの、以後の研究への影響が大きい。
※この「近代以降の鍋島」の解説は、「鍋島焼」の解説の一部です。
「近代以降の鍋島」を含む「鍋島焼」の記事については、「鍋島焼」の概要を参照ください。
- 近代以降の鍋島のページへのリンク