起源・伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 06:52 UTC 版)
胎蔵曼荼羅(大悲胎蔵曼荼羅)は主に『大日経』に基づき、金剛界曼荼羅は『金剛頂経』(経典群)という密教経典に基づいて描かれている。『大日経』は7世紀の中頃、インドで成立したものと言われ、インド出身の僧である善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう、637年 - 735年)が、中国人の弟子の一行禅師(いちぎょうぜんじ、683年 - 727年)と共に8世紀前半の725年(開元13年)前後に漢訳(当時の中国語に翻訳)したものである。一方の『金剛頂経』は7世紀末から8世紀始めにかけてインドで成立したもので、『大日経』が訳されたのと同じ頃に、インド出身の僧である金剛智三蔵(671年 - 741年)と、弟子の不空三蔵(705年 -774年)によって漢訳されている。なお、日本密教の伝承によれば、『金剛頂経』は十八会(じゅうはちえ)、つまり、大日如来が18回のさまざまな機会に説いた説法を経典としたものを、それぞれまとめて十八本に集大成した膨大なものであるとするが、金剛智三蔵と不空三蔵が訳したのはそのうちの初会(しょえ)のみであるとされ、この初会の経典を『真実摂経』(しんじつしょうぎょう)とも言う。 いずれにしても、『大日経』と『金剛頂経』は同じ大日如来を主題として取り上げながらも系統の違う経典であり、違う時期にインドの別々の地方で別個に成立し、中国へも別々に伝わった。これら2系統の経典群の教えを統合し、両界曼荼羅という形にまとめたのは、空海の師である唐僧の恵果阿闍梨(746年 - 805年)であると推定されている。恵果阿闍梨は、密教の奥義は言葉では伝えることがかなわぬとして、宮廷絵師の李真に命じて両界曼荼羅等々を描かせ、空海に与えた。空海は、唐での短い留学を終えて806年(大同元年)に帰国した際、それらの曼荼羅を持ち帰っている。 空海が持ち帰った彩色両界曼荼羅(根本曼荼羅)の原本および弘仁12年(821年)に製作された第一転写本は教王護国寺に所蔵されていたが失われており、京都・神護寺所蔵の国宝・両界曼荼羅(通称:高雄曼荼羅)は彩色ではなく紫綾金銀泥であるが、根本曼荼羅あるいは第一転写本を忠実に再現したものと考えられている。
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