誘拐殺人事件
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「es:ETA político-militar#Los "berezis" y el asesinato de Ybarra」を参照 1977年5月20日、イバーラはバスク地方分離独立主義組織バスク祖国と自由(ETA)の活動家に誘拐された。事件を引き起こしたのは、ETAの中でも政治を重視する派閥ETA(pm)の方針に反発していたベレチアック(comando berezi、los "berezis"、特殊コマンド部隊)のメンバーだった。彼らは覆面を付けて家の中に侵入し、家族を縛ってさるぐつわを咬ませると、救急車でイバーラを連れ去った。誘拐犯はバスク地方内で囚われている囚人の釈放を要求し、この条件はスペイン政府によって大部分は果たされた。すると、誘拐犯はさらに10億ペセタの身代金と、さらなる囚人の釈放を求めた。イバーラを誘拐したグループが、ETA本体との提携を放棄していたことが状況を複雑にした。イバーラの家族は支払期限を引き延ばすよう交渉を試みたが、誘拐犯は交渉には応じず、6月20日にイバーラを殺害したと発表した。さらに遺体の場所を示しているとされる地図を送り、グアルディア・シビル(治安警察)はその地図から遺体を見つけることができなかったが、ナバーラ県の農家の近くで遺体が発見された。頭部を撃たれ、ビニールシートに覆われた状態だった。
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誘拐殺人事件
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「ハンス=マルティン・シュライヤー」の記事における「誘拐殺人事件」の解説
1977年9月5日、シュライヤーはケルンでドイツ赤軍(RAF、通称バーダー・マインホフ・グループ)に誘拐された。乗っていたメルセデス・ベンツの後席から引きずり出され、専属の運転手、ボディガード、および身辺警備を行っていた警官2名の計4名は殺された。 RAFは西ドイツ政府に対し、シュライヤーの生命と引き換えに、シュトゥットガルトのシュタムハイム刑務所に収監されていたRAFのメンバーらの釈放をせよと脅迫した。この間、シュライヤーはケルン近郊のエルフトシュタットの高層賃貸アパートの一室に監禁され、後にオランダ領内へ、さらにベルギーへと移されて監禁期間の大部分をベルギーで過ごした。捜査本部は総力を挙げて彼の行方を捜したが、捜査にあたる組織間の意志疎通がうまくいかなかったために救出できなかった。地元警察の捜査員の数名は前述のアウトバーンそばの高層アパートにいるに違いないと確信したほか、1人は監禁されている部屋のドアベルも鳴らしたが、これらの情報は連邦警察の捜査本部まで上らなかった。 西ドイツ政府はRAFの要求に一切応じなかったため、RAFはパレスチナ解放人民戦線(PFLP)と組んで10月13日にルフトハンザ航空181便ハイジャック事件を起こしたが、10月18日未明に特殊部隊GSG-9が機内に突入してハイジャック犯は射殺されるか逮捕され失敗に終わった。機内突入の1時間後、シュタムハイム刑務所ではグドルン・エンスリンが首を吊り、アンドレアス・バーダーとヤン=カール・ラスペ(ドイツ語版)が拳銃で自殺した。またイルムガルト・メーラー(ドイツ語版)が胸をナイフで刺して自殺を図り重傷を負った。 獄中の同志たちの自殺のニュースを聞いた拉致監禁グループは、18日のうちにシュライヤーを連れてブリュッセルを去り、フランスのミュルーズへ向かう途中でシュライヤーを射殺した。シュライヤーの遺体は緑色のアウディ・100のトランクに入れられ、車はミュルーズのシャルル・ペギー通りに放置された。誘拐犯たちはドイツ通信社(DPA)のシュトゥットガルト支部にアウディの位置を電話で伝え、10月19日に遺体が発見された。 10月25日にはシュトゥットガルトで大規模な葬儀が行われ、西ドイツの主要な政治家ほぼすべてが参列した。ヘルムート・シュミット首相は、未亡人に対し、政府が誘拐犯に強硬な姿勢をとり全く要求に応じす、結果としてシュライヤーを見殺しにしたことに対し遺憾の意を表明した。シュライヤーを記念し、BDAとBDIは共同でハンス=マルティン・シュライヤー財団を設立し若い法学研究者への支援を行っている。また1983年にはシュトゥットガルトに完成した室内競技場が「ハンス=マルティン・シュライヤー・ハレ(ドイツ語版)」と名付けられたほか、ドイツの多くの都市の通りにシュライヤーの名がつけられた。
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