試運転と評価
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最初の試作車が完成し公式な試走の記録として、「ここ数日、風変わりな機械の試運転がおこなわれた。」という1769年10月23日のバショーモンの記述があり、また別の記述として、「ショワズール、グリボーバルらが参加した。4キロを一時間で移動した。馬を使わない荷車のようなもので水平に動いた」と砲兵隊長LNロラン (L.N. Rolland) の記述が残っている。当時の蒸気機関は重力を利用し垂直に力を働かせるものだった。目標として8キロを1時間で移動する計画だったが、実際は1時間に1kmを走破、時速3.5kmから4km、途中とまらなければ時速3.5km~6km、など記述者(バショーモン、グリボーバル、ロラン)によって異なる記述がされている。その後も繰り返し実験が行われ改善がおこなわれたが当初の目標には達成しなかった。「これ以上の結果の改善には疑問もある」ともされていたが、続行の判断がなされた。
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試運転と評価
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1770年11月中旬に2号車の公開試運転がなされた。試運転場所は、パリ―ヴァンセン間(パリ兵器庫とヴァンセン兵器庫の間)という記述とヴァンヴのプランス・ド・コンティ公園という記述がある。速度は4人を乗せて3.5km~4kmを1時間で移動したとする記述や、同じ重さの銃48丁で2.5トンの荷を5km/hで移動したとする記述などもある。 赤銅製ボイラーには水の補充機構はなく(補充は停止時のみ可能で、また補給方法も難しいものだった)、12分から15分しか働かず、その後元の力に戻るまでに15分を要した。これは燃焼部の設計のまずさによる熱損失のためだった。グリボーバルは「現在仕組まれた機構のすべてを蒸気力でこなせるようなボイラー部にはなっていない。火室の作りが悪く熱が逃げてしまう。ボイラーの大きさがポンプの大きさと比べて釣り合いが取れていない。結局、12分から15分しか動かず、再び移動できる力に蒸気力が復帰するには長時間休まねばならない。」と記している。 1804年10月の「ル・モニター誌( Le Moniteur: 1789年から1901年まで発刊されたジャーナル誌)」ではキュニョーの死を報じる記事の掲載の際、「火と水蒸気で走るカブリオレ(馬車)で兵器庫での試運転がおこなわれ、大変激しい動きで御しきれず、運転の際、進行方向にあった壁にぶつかり倒してしまい、使用が見送られた。」という内容の記述がされていた。1851年の「人間の知恵の驚異」(“Les merveilles du Génie de l'homme”) でA・ド・バスト (de Bast) は、この事故を「パリ=ヴァンセン間(パリ兵器庫とヴァンセン兵器庫の間)」と記述している。
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