証券市場に進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:47 UTC 版)
異常な地価高騰で、秀和が保有する不動産は莫大な含み資産となっていった。その一方で、都心で地価が上がりすぎてしまい、土地を買って賃貸ビルを建設しても採算が合わなくなってしまった。そこで、小林は方針を転換。用地買収資金を株購入に回して、証券市場に進出した。 兜町デビューは81年の「東京日産株買い占め事件」。この年の春まで小林は東京日産株の21%を買い集めた。日産自動車系ディーラーであった同社は、同族経営で100%日産車を扱いながら、日産と東京日産の間には資本関係がなかった。また老舗ディーラーである東京日産は店舗用地として都内のいたるところにも土地を持っていた。小林は含みがある遊休地を吐き出させることを狙ったのである。この一件は、最大のディーラーある東京日産が乗っ取られでもしたら一大事と、日産自動車が乗り出してきて、秀和が買い占めた株を日産が引き取って決着するのだが、このときの成功体験をしっかりと胸にしまって、小林はバブル時代に、新興仕手筋として兜町に登場してくるのである。 忠実屋・いなげや事件 1989年(平成元年)7月7日、秀和は名義書き換えを行い、首都圏に営業基盤を持つ中堅スーパーの忠実屋、いなげや、長崎屋の筆頭株主に躍り出た。戦友の清水からダイエー、イトーヨーカ堂、西友、ジャスコ、ニチイ、ユニーの大手スーパー6社に対抗するには、中堅スーパーを糾合して年商1兆円規模にしなければ、生き残れないという「中堅スーパー大同団結論」を聞いていた小林は、この話に乗り、ここから、小林=清水連合軍による中堅スーパーM&A作戦が始まった。清水とは戦後の一時期、音信不通となるが、清水が仕事で上京していた際、銀座でバッタリ再会し、清水が首都圏にスーパーを出してからは、小林が「俺のマンションに来い」誘い、同じマンションに住んだ。 小林=清水連合軍による最初のプランは、清水が経営するライフストア(現:ライフコーポレーション)と長崎屋との合併だった。2人は長崎屋社長だった岩田孝八と会談するが、長崎屋の役員の中に反対意見があって、この話は流れた。そこで、2人は長崎屋以外のスーパーから中堅スーパー大同団結のターゲットを選び出す作業に取り掛かった。親会社が商社、鉄道、百貨店などのスーパー、地方に拠点を置くスーパーを候補から外した。消去法で絞り込んだ結果、東京の立川や八王子が地盤で、独立系スーパーである忠実屋と、いなげやが残った。 ところが、7月10日、忠実屋といなげやは秀和の買い占めに対抗するために、第三者割当増資を行い、発行済み株式の19%を持ち合うことで合意した業務・資本提携を電撃的に発表した。両社が相互に株式を持ち合うことで、秀和の持ち株比率を3分の1未満に引き下げ、小林に重要事項の拒否権を行使できないようにすることを狙った、乗っ取り防衛策である。この防衛策に対して、秀和は、両社が相互に割り当てた株式の価格が市場価格を不当に下回っているとして、新株発効の差し止めを求める仮処分を東京地裁に申請した。同地裁は、この仮処分申請を認める決定を下した。判決理由は、新株発行は正式な手続きを得ていない(経営側にとっての)有利発行であり、特定の株主の持株比率を低下させることだけを目的とした不正発行であるとした。秀和の全面勝訴だった。 詳細は「忠実屋・いなげや事件」を参照
※この「証券市場に進出」の解説は、「秀和」の解説の一部です。
「証券市場に進出」を含む「秀和」の記事については、「秀和」の概要を参照ください。
- 証券市場に進出のページへのリンク