討ち入り
討ち入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
元禄15年12月14日(1703年1月30日)、四十七士は堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にて着替えを済ませ、寅の上刻(1703年1月31日午前4時頃)に借宅を出た。そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は掛矢(両手で持って振るう大型の木槌)で門を打ち破り吉良邸に侵入した。 表門隊は侵入するとすぐに、口上書を入れた文箱を竹竿にくくりつけ、玄関の前に立てた。 裏門隊は吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた。また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたが、その長屋の戸口を鎹(かすがい)で打ちつけて閉鎖し、家臣たちが出られないようにした。吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる。 四十七士は吉良上野介の寝間に向かったものの、上野介は既に逃げ出していた。茅野和助が上野介の夜具に手を入れ、夜具がまだ温かい事を確認した。上野介はまだ寝間を出たばかりだったのである。四十七士は上野介を探した。 そして台所の裏の物置のような部屋を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにし、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き、武林唯七が刀で斬り絶命させた。この老人が上野介であると思われたので、浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた。 そこで合図の笛を吹き、四十七士を集めた。ここまでわずか二時間程度であった。 双方の死傷者は、吉良側の死者は15人、負傷者は23人であった。一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は2人で、原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し、近松勘六が庭で敵の山吉新八郎 と戦っているときに池に落ちて太ももを強く刺されて重傷をおっている。 浪士たちの討ち入り事件は、討ち入り2日後の14日[疑問点 – ノート]の記録にすでに「江戸中の手柄」と書いてあるほど、すぐさま噂として広まった。
※この「討ち入り」の解説は、「赤穂事件」の解説の一部です。
「討ち入り」を含む「赤穂事件」の記事については、「赤穂事件」の概要を参照ください。
「 討ち入り」の例文・使い方・用例・文例
- 義士の討ち入り
- 赤穂(あこう)浪士の討ち入りを描いた最古の浮世絵の木版画が見つかった。
- そのため,討ち入りの詳細は他の方法で人々に伝えられた。
- その版画は平(たいらの)将(まさ)門(かど)の孫に関する物語の中で,討ち入りの場面を演じている歌(か)舞(ぶ)伎(き)役者を表している。
- しかし,版画中に吉(き)良(ら)上(こうずけ)野(の)介(すけ)と思われる男がおり,「四十七士」のかわりに21人しか描かれていないが,その場面は明らかに赤穂浪士による討ち入りを描写している。
- 討(ち)入りのページへのリンク