観光業の時代と今後の展望
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/22 14:22 UTC 版)
「インターラーケン」の記事における「観光業の時代と今後の展望」の解説
インターラーケンの国際リゾートとしての評判は1800年頃から、フランツ・ニクラウス・ケーニッヒやその他の風景画家による風景画によって広まった。1805年と1808年に開催されたスイスの伝統文化の祭典であるウンスプネン祭の成功も、インターラーケンに多くの観光客を引き込んだ。1820年頃からは山歩きや温泉湯治の観光客が増加し、1859年には巨大な温泉リゾートであるクルサールが開店した。多くのホテルが建ち、交通の便も良く、観光業の初期の隆盛が支えられたのである。 1835年にはトゥーンから蒸気船航路がトゥーン湖に開かれ、ブリエンツ湖にも1839年にブリエンツからの蒸気船航路が開かれた。1872年にはデアリゲンからインターラーケンまでトゥーン湖沿いにベーデリ鉄道が開業し、2年後の1874年にはインターラーケンからブリエンツ湖に面するベーニゲンまで延伸された。ベーデリ鉄道は当初は他のスイスの鉄道に接続しておらず、専らトゥーン湖とブリエンツ湖の蒸気船航路の間を繋ぐためのものであったが、1893年にトゥーン湖線が開業するとトゥーン湖に沿って鉄道で直接トゥーンまで行くことができるようになり、そこから先はベルンやその他の都市にも繋がっていた。 1888年、ルツェルン湖に面するアルプナッハシュタートからブリエンツ湖のブリエンツまでブリューニック鉄道が開通し、蒸気船航路を利用してインターラーケンからルツェルンまでが繋がった。さらに1916年にはブリエンツからインターラーケンまで鉄道が延伸され、ルツェルンまでは鉄路で直通した。また、1890年にはベルン高原鉄道が観光地のラウターブルンネンやグリンデルヴァルトとインターラーケンを繋いだ。。 交通網の発展と同時に、ユングフラウに至る経路に沿って、宿泊施設が建設された。特に1860年から1875年にかけてと、1890年から1914年にかけて、ユングフラウと周囲の山々を望む多くの高級ホテルが開業した。新しいクルサールも1898年から1899年にかけて建設され、1909年から1910年にはさらに改装された。観光業の他にも、寄木細工の工場が1850年頃から1935年まで稼働していた。毛織物工場も1921年に開業しており、20世紀の後半には毛糸工場や鉄製品の工場も開業している。1988年にはアウトバーン8号線が開通している。 観光業の急成長は、1914年の第一次世界大戦で突如止まった。戦後はある程度成長が回復したが、第二次世界大戦によって再び急激に鈍化した。戦争の打撃から復興するために、インターラーケンは1955年から会議や大会の会場としての特色を新たに打ち出し、二つの中核地域を中心に建設計画が進行している。マッテンとウンターゼーンも新たな建設計画に参画し、インターラーケンと共通の社会資本を形成しつつある。ただし、これら三つの自治体が統合することの賛否を問う住民投票は、1914年と1927年に否決されている。
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