観光展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/21 07:11 UTC 版)
「鞆の浦鯛しばり網漁法」の記事における「観光展開」の解説
文政2年(1819年)菅茶山『備後福山領風俗記』によると、鯛網のまわりには見物人がおり網船に酒を送ると鯛を返礼として貰っていたことが書かれており、つまりこの時代には鯛網の周りには観覧船が出ていた。 廃藩置県後、勢力の弱まった村上氏に代わり、鞆の平地区の漁師達による網元が鯛網を引き継ぐことになる。明治20年(1887年)、平地区の本瓦清兵衛・藤本清助・表政七ら11軒の網元が発足し、今後は彼らが中心となっていった。明治末期にはこれに加え原地区にも存在していた。また明治30年(1897年)には姫路で行われた第2回水産博覧会にて”鯛縛り網模型””鯛網図”を出品、入賞している。 一方で鞆の商業活動は近代以降衰退していった。それまで和船の風待ち潮待ちの港として栄えたが蒸気船や機帆船の登場によりその必要がなくなったこと、そして山陽鉄道(山陽本線)の登場により物流が変わったためである。これを打破しようと、鞆町第2代町長横山運次は観光開発を始めた。その一つが観光鯛網であった。当初は住民により反対されたが横山は精力的に働きかけ、それに地元出身の実業家森下博が後押し、特に”日本の広告王”と言われた森下は関西圏で観光客誘致を働きかけ大阪市電や大阪市の新聞に広告を打った。これが幸いし大正12年(1923年)第1回観光鯛網は大盛況を収め、ここから観光鯛網は続いていく。 大正15年(1926年)5月24日、摂政宮(のちの昭和天皇)台覧興行が行われた。これにより全国的に鞆の鯛網の存在が知られるようになった。 昭和10年代(1935年頃)親船(網船)以外の船団を機械化。太平洋戦争を挟んで観光客の減少により観光鯛網は中断したが、昭和24年(1949年)から再開し現在まで続いている。なお漁としての鯛網は昭和30年代(1960年前後)に消滅している。昭和63年(1988年)に親船が作られた。平成27年(2015年)福山市指定無形民俗文化財に指定された。これを受け、市の助成金で親船2隻を新造更新、以前のものより幅長さともに1m大きくなった。
※この「観光展開」の解説は、「鞆の浦鯛しばり網漁法」の解説の一部です。
「観光展開」を含む「鞆の浦鯛しばり網漁法」の記事については、「鞆の浦鯛しばり網漁法」の概要を参照ください。
- 観光展開のページへのリンク