藤堂氏時代とは? わかりやすく解説

藤堂氏時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:04 UTC 版)

上野城」の記事における「藤堂氏時代」の解説

同年8月伊予宇和島城から築城名手とされる藤堂高虎伊賀入国した大坂城対抗する以外にも、大和紀伊抑えるためにも高虎の力が必要となった思われている。高虎慶長16年1611年正月より、上野城大幅な改修着手大坂方に対抗するために特に西方面防御に力をそそいだ。 「本城の西の空地を築挙げ広め、西に幅十五間深溝掘り、高さ根石より十五間の高塁、南北押廻し百八十六間の石塁築き南北の両隅に櫓台制し是まで本城合せて新に本丸とし、南面にして南北二口を開く南側東西三十間とし、北側東西三十一間とす。東側は乾堀共旧きを用い西側幾度新に南北三十九間とす。比高塁摂坂の城塁より見事なり」(『公室年譜略』)としている。この「摂坂の城」とは豊臣時代大坂城のことを指しており、高石垣規模の大きさ物語っている。南側大手とし、堀を深く、南に二ノ丸構築した天守位置西側移動し今治城天守移築しようとしたが、天下普請となった丹波亀山城献上したため新規に5層天守建設した筒井時代は、上野城大坂城を守る出城としての機能持ったであったに対して藤堂時代大坂城攻めるための城というまった正反対立場をとった城とされている。 東西十三間、南北十一間、高さ五間の天守台築いた天守閣建設五人大工棟梁分担工事とし、互いを競わすなどされていたが、完成ひかえた慶長17年1612年9月2日大嵐のため三層目が西南吹き倒れその上に五層目が落ち天守倒壊した大工人夫合せて約180名が倒死、また多数怪我人をだした。 慶長19年1614年)、元和元年1615年)の2度に渡る大坂の陣家康勝利となり、豊臣氏滅亡堅固な城が必要なくなり天守再建されなかった。本丸建てられなかったが、外堀土塁上には、二層が二棟、単層が八棟、計十棟の建てられ長さ二十一間両袖七間多聞櫓をつけた東大手門、西大手門も建てられた。高虎大坂の陣終わった後、交通の便利がいい津城本城とし、上野城支城とした。 一国一城令上野城伊賀の城として存続認められると、高虎は弟の藤堂高清城代とし、高清の死後藤堂元則城代となり、文政8年1825年)に藤堂高猷最後城主となるまで藤堂氏世襲とした。 上野城絵図/個人蔵 上野城絵図部分図/個人 二之丸図/個人 菱櫓図/個人

※この「藤堂氏時代」の解説は、「上野城」の解説の一部です。
「藤堂氏時代」を含む「上野城」の記事については、「上野城」の概要を参照ください。

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