薬子の変と鈴鹿山の賊徒の執心とは? わかりやすく解説

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薬子の変と鈴鹿山の賊徒の執心

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:11 UTC 版)

大嶽丸」の記事における「薬子の変と鈴鹿山の賊徒の執心」の解説

平安時代初期大同5年9月6日ユリウス暦810年10月7日)、平城上皇平安京廃して平城京遷都する詔勅発したことで薬子の変が起こる。嵯峨天皇ひとまず詔勅に従って坂上田村麻呂らを造宮使任命したが、9月10日10月11日)には三関固関使を派遣藤原仲成捕らえて右兵衛府監禁の上佐渡権守左遷し藤原薬子官位剥奪して罪を鳴らす詔を発し造宮使田村麻呂大納言昇任させる。このとき近江国へは小野岑守とともに田村麻呂次男坂上広野派遣されている。9月11日10月12日早朝上皇薬子とともに東国向けて平城京を発つ。田村麻呂美濃道より上皇一行迎えうつため文室綿麻呂同行願いて、宇治橋・山埼と淀市の津に兵を配置した。この夜、仲成が紀清成住吉豊継の手により右兵衛府射殺された。9月12日10月13日)、上皇一行大和国添上郡越田奈良県奈良市北之庄町東九条町付近)に至ったとき、田村麻呂指揮する兵に行く手遮られ上皇平城京戻り剃髪入道し、薬子は毒を仰いで自殺した一方で鎌倉時代初期1195年頃)に成立した推定される歴史物語水鏡』によると、平城太上天皇が軍をおこして尚侍藤原薬子と同じ輿に乗り東国向かったことを大外記上毛野穎人嵯峨天皇申し前日大納言任命され坂上田村麻呂宰相文室綿麻呂遣わしてその道遮り藤原仲成射殺したという。この頃より平城上皇剃髪入道薬子自害までを中心とした薬子の変史実と、伝説交えた幻想的な虚構性とが錯綜しながら展開されていく。 滋賀県甲賀市土山町鎮座する田村神社様々な記録先祖からの言い伝えをもとに天文10年4月17日1541年5月12日)にまとめられたとする近江甲賀郡頓宮之牧土山正一位高座田村神社鈴鹿神社縁本記』では次のように記されている。薬子の変際し坂上田村麻呂嵯峨天皇の命で鈴鹿山向かい藤原仲成滅ぼしたが、田村麻呂亡くなった弘仁2年の秋から天下疫病流行り卜定によると田村麻呂鈴鹿山退治した賊徒執心祟り成して鈴鹿山から吹き下ろす風が原因であったため、鈴鹿山の西にある二子山の峰に田村麻呂祀る神社建立して鈴鹿山から吹き下ろす風を防ぎ止めようとした。弘仁3年正月18日812年3月4日)に遷宮行い厄除神事行ったところ疫病治まった神社二子山にあったが、三度流れ着いた場所が田村麻呂が陣取った鈴鹿社ののため弘仁13年4月8日822年5月2日)に鈴鹿と共に祀ったという。 田村麻呂平城上皇東国行き阻止し鈴鹿山上皇側の藤原仲成の軍を討滅したという記事は『賀茂皇太神宮記』などにも見える。

※この「薬子の変と鈴鹿山の賊徒の執心」の解説は、「大嶽丸」の解説の一部です。
「薬子の変と鈴鹿山の賊徒の執心」を含む「大嶽丸」の記事については、「大嶽丸」の概要を参照ください。

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