薬子の変と鈴鹿山の賊徒の執心
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「大嶽丸」の記事における「薬子の変と鈴鹿山の賊徒の執心」の解説
平安時代初期の大同5年9月6日(ユリウス暦810年10月7日)、平城上皇が平安京を廃して平城京に遷都する詔勅を発したことで薬子の変が起こる。嵯峨天皇はひとまず詔勅に従って坂上田村麻呂らを造宮使に任命したが、9月10日(10月11日)には三関に固関使を派遣、藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁の上で佐渡権守に左遷し、藤原薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発し、造宮使の田村麻呂を大納言に昇任させる。このとき近江国へは小野岑守とともに田村麻呂の次男・坂上広野が派遣されている。9月11日(10月12日)早朝に上皇が薬子とともに東国に向けて平城京を発つ。田村麻呂は美濃道より上皇一行を迎えうつため文室綿麻呂の同行を願いて、宇治橋・山埼橋と淀市の津に兵を配置した。この夜、仲成が紀清成・住吉豊継の手により右兵衛府で射殺された。9月12日(10月13日)、上皇一行が大和国添上郡越田村(奈良県奈良市北之庄町・東九条町付近)に至ったとき、田村麻呂が指揮する兵に行く手を遮られ、上皇は平城京に戻り剃髪入道し、薬子は毒を仰いで自殺した。 一方では鎌倉時代初期(1195年頃)に成立したと推定される歴史物語『水鏡』によると、平城太上天皇が軍をおこして尚侍藤原薬子と同じ輿に乗り東国へ向かったことを大外記上毛野穎人が嵯峨天皇に申し、前日大納言に任命された坂上田村麻呂は宰相文室綿麻呂を遣わしてその道を遮り、藤原仲成を射殺したという。この頃より平城上皇の剃髪入道や薬子の自害までを中心とした薬子の変の史実と、伝説を交えた幻想的な虚構性とが錯綜しながら展開されていく。 滋賀県甲賀市土山町に鎮座する田村神社の様々な記録や先祖からの言い伝えをもとに天文10年4月17日(1541年5月12日)にまとめられたとする『近江州甲賀郡頓宮之牧土山郷正一位高座田村神社・鈴鹿神社縁本記』では次のように記されている。薬子の変に際し、坂上田村麻呂は嵯峨天皇の命で鈴鹿山に向かい藤原仲成を滅ぼしたが、田村麻呂の亡くなった弘仁2年の秋から天下に疫病が流行り、卜定によると田村麻呂が鈴鹿山で退治した賊徒の執心が祟りを成して鈴鹿山から吹き下ろす風が原因であったため、鈴鹿山の西にある二子山の峰に田村麻呂を祀る神社を建立して鈴鹿山から吹き下ろす風を防ぎ止めようとした。弘仁3年正月18日(812年3月4日)に遷宮を行い厄除神事も行ったところ疫病は治まった。神社は二子山にあったが、三度流れ着いた場所が田村麻呂が陣取った鈴鹿社の森のため弘仁13年4月8日(822年5月2日)に鈴鹿社と共に祀ったという。 田村麻呂が平城上皇の東国行きを阻止し、鈴鹿山で上皇側の藤原仲成の軍を討滅したという記事は『賀茂皇太神宮記』などにも見える。
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