蒲池源八・稲葉紐次郎の処刑と清水清次の捕縛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/02 14:27 UTC 版)
「鎌倉事件」の記事における「蒲池源八・稲葉紐次郎の処刑と清水清次の捕縛」の解説
その後、相模国高座郡羽鳥村(現在の神奈川県藤沢市羽鳥)で起こった強盗事件の犯人として神奈川奉行所に召し捕られた自称浪人の無宿蒲池源八(26歳)および稲葉紐次郎(23歳)を取り調べた際、彼らの首領で逃亡中の浪人清水清次(25歳)がイギリス人殺害事件の犯人であるとの供述が得られた。このため幕府は清水を犯人の一人と断定、さらに蒲池と稲葉についてもイギリス人士官殺害犯の連累とみなし、これをオールコックに報告した。 この報せを受けたオールコックは、同種の事件の再発を防止するため見せしめとして2人を獄門に処し、その罪状を公布する事、また処刑に際して駐留イギリス軍の士官を立ち合わせる事を求めた。 しかし幕府側は、2人の処刑は日本の法律に従って行うとして通常の死罪、すなわち牢内での斬首のみに止め、ただ処刑に際してイギリス軍士官の立ち合いと、横浜市中の各所に特別に罪状書を掲示することを認めた。 蒲池と稲葉は11月18日(12月16日)、強盗およびイギリス人士官殺害事件の連累として、被害者が所属していた第20連隊の士官やイギリス公使館員を始めとする外国人多数の立ち合いのもと、戸部の牢屋敷において死罪に処せられた。単に清水の強盗仲間に過ぎないこの2人をイギリス人士官殺害の連累とする事については横浜居留地の外国人たちの間でも是非が分かれたが、清水の行方について探索を続けていた幕府は蒲池、稲葉の処刑の翌日、千住の遊廓に潜伏中の清水を捕縛した。 捕縛後、江戸においてただちに清水の取り調べが行われ、11月25日(12月23日)になって清水は供述を始めたが、幕府が公表した吟味書によれば、その内容は概ね以下のようなものであったという。 自分は遠州金谷(現在の静岡県榛原郡金谷町)の出身で、浪人だった父に連れられ、幼時より各地を放浪して貧窮した生活を送っていた。しかし外国人が日本を闊歩する近年の時勢を快く思わず、加えて開国以来の物価騰貴と生活難も外国人のせいであると考え、これを殺して名を挙げようと考えた。 そこで横浜に行って機会を窺っていたが、警戒が厳重なため目的を果たせず、比較的警備の手薄な鎌倉に向かう道中で知り合った高橋藤次郎なる人物と意気投合し、2人で八幡宮門前近くで待ち伏せしてイギリス人を殺害した。犯行後はすぐに高橋と別れて江戸に逃れ、そこで旧知の蒲池、稲葉と出会い、3人で京に上るための費用として羽鳥村の富農から金150両を脅し取った。 清水の様子からはなお余罪の存在が疑われたが、拷問を行って清水が死亡した場合、オールコックが要求していた犯人の処刑が不可能となる事を幕府が恐れたため、その追及は見送られた。
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