著名人の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 09:18 UTC 版)
市川浩(哲学者、身体論者) 傾いている家の前に立つと、頭では分かっているのに、「身体」の平衡感覚がおかしくなって、地面の側が坂になっているように感じてしまうことがある。こうしたことなどから、「身体」は、単に、皮膚の内側に閉じ込められた「物質」としての「肉(み)」ではなく、皮膚の外まで拡がり、世界の事物と交わるものであると哲学者・市川浩は考えた。「物心二元論」に基づく考え方を嫌った市川は、「身体」の代わりに「身(み)」という言葉を用いている。「身」は、皮膚の下の「肉」という客体的な「身体」と、「身体」を原点として意味づけされた空間の中で、世界の事物と交わりながら社会的に生きている主体のありかとしての「身体」とをうまく統合的に表す概念として使われ、こうした市川の考えは、1970年代以降の身体論に、大きな影響を与えた。 鷲田清一(哲学者) 「身体」を「からだ」と読む(捉える)鷲田清一は、「身体」は自分がどのように経験するかという視点から見たとき、「身体」は、「像(イメージ)」でしかありえないと指摘している。「身体」のなかで自分がじかに見たり触れたりして確認できるのは、手や足といったつねにその断片でしかなく、胃のような「身体」の内部はもちろんのこと、背中や後頭部さえじかに見ることはできない。そして自分の感情が露出してしまう顔もじかにみることはできない。「身体」を知覚するための情報は実に乏しく、自分の「身体」の全体像は、離れてみればこう見えるだろうという想像に頼るしかない。つまり、自分の「身体」は、「像(イメージ)」でしかありえないことになる。 小池昌代(詩人、小説家) 小池昌代によれば、ひとの背中は、そのひとの無意識があふれているように感じられる場所であり、誰かの後ろ姿を見るときには、見てはならないものをみたような後ろめたい感じを覚えるものだ。背中にの周りに広がっているのが「背後」と呼ばれる空間であるが、「背後」は、まるで彼岸のように、こちら側と触れ合わないもうひとつの世界といえる。自分の背後を思うことは、自分の無意識を探るような行為だが、詩を書くこともまた、自分の無意識を探求するような行為といえる。 上野千鶴子(フェミニスト、社会学者) 上野千鶴子によると、女性は男性から評価される対象として自己身体を経験している。ダイエットは実は他者の欲望する視線を内面化し、そこに向けて自分をコントロールする「他者の欲望の欲望」である。近年男性も他者の視線を意識した身体の客体化が見られる。自己の身体の価値を他者に依存せず充足できれば身体のユートピアといえようが、それすら市場的に評価される。結局、社会的な記号性を欠いた身体など存在せず、身体は他者なのである。 尼ヶ崎彬(美学者) 尼ヶ崎彬によれば、日常生活において人間の身体は自然的・文化的な秩序に従って自動的に動いている。それに対して、舞踊の身体はこの日常の秩序を逸脱し、別の原理によって秩序化されている。そのためには身体の動きを意識的にコントロールする必要がある。その身体の動きには筋肉や体勢などの内面的なものと、想定された他者の目から見た身体という外面的なものがある。身体を時間的分節と体勢の型という二つ外面の秩序に従わせ、その動きが踊る主体の内面の自律的な秩序から生まれたように見えるときに、舞踊の身体が現れる。そして、内面の身体を意識しなくとも身体が自動的に秩序を具現するようになったとき、舞踊の身体は完成する。練達の舞踊家は、さらにその秩序を逸脱していくことで新しい型を創造していくのである。
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