萩城の建設とは? わかりやすく解説

萩城の建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)

毛利輝元」の記事における「萩城の建設」の解説

慶長10年1603年8月、輝元は防長減封後、初めての帰国許された。その際家康が輝元の帰国許可を出すにあたって領内任意の場所に居城を築くことを勧めた同年10月4日、輝元は帰国し周防国山口覚王寺を仮の居所定めた。輝元は領内諸城構築強化努め国境築城進んだため、居城選定着手した減封後は暫定的に山口高嶺城居城としていたが、高嶺城海辺面していない点が近世城郭としては欠点であったため、別の候補地探し11月には防府桑山候補選定したが、桑山砂山石垣積み上げることが困難であり、節所もないことから決定には至らなかった。その後築城の有力候補として、阿武川河口位置し日本海にも面している長門国白羽の矢立ったが、山陽道への往来が困難であり、位置領内北端位置している点が欠点考えられた。ここに至って、輝元は築城地の選定幕府意見求めこととした。 慶長9年1604年1月、輝元は福原広俊江戸派遣し、広俊は既に江戸にいた国司元蔵と共にまず毛利氏取次務め本多正純のもとに赴き、防長両国絵図示し候補である周防国山口高嶺防府桑山長門国指月山のいずれを居城とすべきか意見求めた。正純は国の地勢方角について詳しく広俊に質問した上で比較し暫定的居城高嶺城では駄目なのかと問うと、広俊はその通りだと答えたため、桑山には節所がないこともあり、正純は所柄良い指月山勧めたその上で本多正信意見聞くように勧め、もし城地の選定について妨害する者がいたとしても我等父子がいるため安心するようにと述べたその後、広俊と元蔵本多正信村越直吉意見聞き最後に堅田元慶連れて城昌茂意見聞いた結果指月山居城を築くことに決まった。 そして、輝元は萩城縄張り再三固辞する吉川広家強く依頼して2月18日縄張初を行い築城ある程度進んだ11月10日に輝元は山口から萩城に移り住み居城とした。だが、萩城普請は輝元の入場後も続けられ翌年慶長10年1605年)には城の東門の取入、舟入の南喰違石垣、北の浜辺石垣等が完成する幕府築城規模極めて小さくするように指示していたが、最終的に萩城広島城匹敵するほどの大規模な城郭となった慶長10年1605年7月2日、輝元は家中統制の必要もあり、熊谷元直天野元信らを萩城建築中の3月発生した五郎太事件絡んで粛清した。この事件熊谷元直天野元信両名益田元祥との萩城の建設における争い発端であるが、これにより城の建設遅れたたほか、2代将軍となった徳川秀忠を祝うための輝元の上洛まで遅れることとなった。輝元は4月上洛したものの、築城作業の遅延幕府不興を買うことを恐れ6月萩城に戻ると、7月には両名追討する至った慶長15年1610年)、領内検地の後、幕閣とも協議し公称高(表高369,411石に高直しを行ない、この表高支藩立藩した時も変わることはなかった。

※この「萩城の建設」の解説は、「毛利輝元」の解説の一部です。
「萩城の建設」を含む「毛利輝元」の記事については、「毛利輝元」の概要を参照ください。

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