萩へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)
2月2日、諸隊幹部は敬親父子へ停戦の合意と謝罪の手紙を送った。 2月5日、藩政府は萩城内の戒厳を解いた。この時、俗論派の実戦部隊である撰鋒隊に不穏な動きがあった為、敬親はこれを召し出し解散させた。 同日、江戸幕閣は慶勝に、尾張藩兵を用いて毛利藩主父子を江戸へ護送すること、また総督として九州五藩に五卿もまた江戸へ護送することを命じるよう指示した。慶勝はそんなことをすれば天下の大乱になると反駁し、一兵たりとも出兵させなかった。そののち慶勝は朝廷に参内し、朝廷は凱旋の祝酒を送った。そして慶勝は朝廷に帰藩の暇を請い、承認されたため幕府の意向を無視して尾張藩へ帰った。 2月9日、長州支藩藩主の毛利元周と毛利元純が萩城に登り、藩主敬親、重臣と一堂に会して会議を行った。毛利元周は諸隊追討を速やかに取り消し、諸隊の建白書を受け入れ、国内の統一を図るべきことを提案した。敬親父子はこれを了承した。 2月10日、東光寺派の香川半助、桜井三木三、冷泉五郎、江木清次郎らが山口に至り、高杉に萩の情勢を伝え将来の計画を協議した。この時、高杉は香川ら東光寺派に諸隊と同一行動を取ることを求め、香川らはこれを了承した。その夜、萩への帰路の明木付近で香川らは俗論派に襲われた。江木は重傷を負いながらも助かるが、残る香川らは全員が殺害された。俗論派は香川らの殺害を正義派によるものと喧伝した。これを知った高杉ら諸隊幹部は俗論派に罪を擦り付けられるのを嫌い、萩を攻略して俗論派を完全に打倒することを決した。 2月14日、奇兵隊・八幡隊は松本より東光寺へ、南園隊・御楯隊は峠坂より大谷へ(うち一隊は明木を横切り川上へ)、遊撃隊は深川より玉江へ進軍し、萩城周辺を制圧した。諸隊が明木に侵入したとの報せに接すると俗論派の幹部らは逃亡した。癸亥丸が海上から空砲を撃ち示威活動をする中、諸隊は萩城へ入城する。城内と萩市内は非常に混乱していたので、敬親が癸亥丸へ使者を遣わし発砲を止めさせた。高杉らは野山獄に囚われた正義派を釈放した。 逃亡した俗論派の首魁である椋梨藤太、中川宇右衛門らは石州で捉えられた。 2月22日、敬親父子は先霊社の臨時祭を納め、霊社に参拝し、騒乱の責任を先祖の霊に謝罪し、維新の政治を敷くことを誓った。 2月27日、敬親父子は萩城を出立し地方巡視に出る。絵堂方面の戦地を視察し2月28日に山口に帰り、3月22日、高田殿を諸隊会議所と定めた。
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