萩へ出奔した背景
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清麿は天保13年(1842年)、窪田清音の尽力により一人三両掛け百振りの刀剣講「武器講一百之一」を依頼され、一振り目を完成させたところで出奔した。この出奔について、長い間言われていた定説では、その年の暮れに長州萩に現れ2年間を過ごした後、江戸に戻り清音に罪を詫びたということになっていた。 しかし、生誕200年企画展の頃から、窪田清音を裏切り出奔して、詫びを入れて戻ったというこれまでの定説を覆した指摘が相次いでいる。その根拠は以下のとおりである。 清麿が江戸から消えたのは、御納戸頭の職位にあった窪田清音が天保の改革の原案作成をめぐり羽倉簡堂と論争を起こし、水野忠邦によって御役御免となって間もない時期である。 そのため、窪田家の収入が激減した時期であり、経済的事情が大きく影響して窪田屋敷から清麿を出したという説。 村田清風記念館の文書から、清麿が村田清風や他の長州藩士に当てた花押、黒印が入った清麿自筆の炭、鋼代金などの受取状が発見されたことから、長州藩に招かれたのが自然と考える説。 『おれは清麿』を執筆した山本兼一は、少なくとも家老格の重臣が刀を買うくらいだから、逃避行で行ったとは思えない。また二年ほどの駐鎚だから、一から自分の鍛冶場を開いたとも思えない。萩在住の刀工のだれかの鍛冶場を借りたはずであり、それなら、やはり藩に招かれたと考えるのが自然だと指摘。 長州藩が天保11年(1840年)より着手した藩政改革の一環として、武術や武器製作技術の向上のため、他藩より剣槍術師を積極的に招聘していた点から、清麿は窪田清音を通じて藩改革の中心人物だった村田清風から一時期に招かれ、萩で作刀したという説。
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