菓子製造の近代化と産業革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 13:47 UTC 版)
イタリアをはじめ元はヨーロッパ各地で創作された菓子が、フランス菓子として現代に認知されている要因の一つに、菓子の製法を系統立ててまとめ正確に伝播できるようにした点が挙げられる。1784年、革命前のフランスに生まれたアントナン・カレームは製菓だけでなく料理の技量においても秀逸であり、製菓や料理の技法を記した多数の著作を残した。シャルロット、ジュレ、ババロア、ブラン・マンジェ、プディング、ムース、スーフレなど、まさに現代に主流となっている口当たりの良い菓子をこの時代にデザートとして提案しており、同時代のみならず後の菓子職人たちにも大きな影響を与えている。 18世紀に始まった産業革命にともない、精糖産業にも変革が訪れる。16世紀に寒冷地でも栽培できる甜菜(サトウダイコン)からも砂糖が精製できることが発見されていたが、サトウキビを越えて広まることはなかった。しかし、1806年イギリスを封じ込めヨーロッパの経済支配を狙ったナポレオンの大陸封鎖令により砂糖が入手できなくなったことから、甜菜の栽培による砂糖生産が奨励されることになる。19世紀中頃に生産が軌道に乗り、精糖産業の工業化が進んだ。このことは、様々なコンフィズリーは元より、ビスケットやチョコレートなどの普及へと繋がり、ローマの昔から富裕層や特権階級の享受するものだった甘い菓子が、ヨーロッパ中に豊富に出回り始めるきっかけとなった。 パティスリー、そしてコンフィズリーの普及と完成を助けた産業革命だったが、氷菓やアイスクリームこそ産業革命の申し子と言える菓子であった。1867年にドイツで製氷器が発明され、アイスクリーム製造の機械化は一気に進んだ。アメリカでは企業で量産されるようになり、後にアメリカの国民食と言われるほどの普及を見る。以降、グラス(氷菓)は、デザートやアントルメとしてのヨーロッパ式と、量産システムによるスナックとしてのアメリカ式の2つの傾向に分かれて発展することになった。
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