英米の対日姿勢の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:38 UTC 版)
「桂・ハリマン協定」の記事における「英米の対日姿勢の変化」の解説
韓国の保護国化については、桂・タフト協定によってアメリカの、第二次日英同盟によってイギリスの、ポーツマス条約によってロシアの承認を得ており、列強は朝鮮に対する日本の行動の自由を認めるに至ったが、満洲に対しては異なる考えを持っていた。とくに英米は、満洲をロシアから開放するために、日露戦争では日本を支持し、日本の朝鮮支配を承認した面があるのでなおさらであった。そしてまた、英米の満洲に対する輸出額は日本のそれよりもはるかに大きかったので、両国資本もまた満洲市場に対しては関心を寄せていたのであり、ハリマン提案はその具体的な現れであった。対する日本は、列強の中国分割という情勢のなかで苦労して手に入れた満洲南部を勃興期の日本資本主義のために独占したいという思いを次第に強めていったが、その経営の原資を外資にたよらなければならない事情をかかえていたので、それを正面切って主張するわけにもいかなかった。 1906年3月、日本は満洲で門戸開放を実行していないのではないか、あるいはロシアの支配にあったときよりむしろ閉鎖されているのではないかという正式な抗議がイギリス(3月19日)、アメリカ(3月26日)の両国よりもたらされ、注意を呼びかけられた。特に駐日イギリス公使のクロード・マクドナルドは直接伊藤博文に厳しい内容の書簡を送っている。 日本軍は撤兵期限ぎりぎりまで満洲に軍政を布き、日本の勢力を同地に植え付けようとしていた。英米の抗議に対しては、1906年5月22日、両国との関係悪化を憂慮した伊藤博文が中心となって元老、閣僚、軍部首脳などを集めて首相官邸で「満洲問題に関する協議会」を開催した。このとき、陸軍参謀総長の児玉源太郎は「兵力の運用上の便利を謀り陰に戦争の準備」を行うとともに「鉄道経営の中に種々なる手段を講ずる」という積極的満洲経営論を唱え、伊藤らと対立した。伊藤は関東州租借地の清国への返還と軍政の早期廃止方針を唱え、山縣ら陸軍関係者は誰も児玉を擁護しなかったので、伊藤の主張が通って軍政廃止が決定した。これにより英米の警戒心は解かれたが、実際には軍政は目的を達成しており、英米商人の力は衰え、満洲は日本の市場と化していった。
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