船舶部品の製作場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 23:39 UTC 版)
二連の石組遺構や方形炉、坩堝炉、鋳込場(三連溝状遺構)等の複数の金属生産遺構が検出されたほか、大型廃棄土坑から金属加熱・溶解炉で排出された金属滓や木炭、炉壁、羽口、鋳型、坩堝、鍛造剥片等が多量に出土したと報告され、鉄の鍛冶や鉄や銅合金の鋳造による船舶部品製造が盛んに行われていたものと考えられている。これらの調査成果は、当時最新鋭の蒸気船を運用した三重津海軍所跡が、江戸時代に培われた在来の技術を多用していたことを示しており、近代日本成立への歴史的変遷過程を辿る上で具体例を示す貴重な資料となっている。 蒸気缶ボイラー組み立ての困難な作業を物語る大型鉄鋲製作場で出土した注目される遺物として様々な規格の鉄鋲(リベット)が数多く出土したことが報告されている。このうち大型の鉄鋲(リベット)は、ボイラー鉄板圧着に鉄鋲(リベット)で使用された可能性が高い。鋲打ちは赤熱させた鋲を短時間で鉄板に圧着させる熟練工で、蒸気ボイラー組立等に当時不可欠であった。文献調査成果では佐賀藩所有の「電流丸」や幕府軍艦「千代田形」のボイラー製造(組み立て)記事が紹介されている。ボイラー製造作業には佐賀藩の精錬方に籍を置いていた田中久重が深く関わったとことが報告されている。ただ、蒸気船ボイラーのような大規模な鉄製部品の組み立てには大きな苦労が伴ったようである。このことは、鉄鋲を鉄板に圧着できず、タガネで頭部を取り外した破損品が多量に出土していることから窺えるらしい。鋲打ちは赤熱させた鋲を短時間で鉄板に圧着させる熟練工で、失敗したらやり直しはできず廃棄するしかない。破損した鋲は当時の日本で誰も経験したことがないような作業を失敗を繰り返しながら取り組んでいた様子を象徴する出土遺物といえる。 インチ規格のボルトボルトが六角ナットに挿入した状態で出土しており、遺物切断面にはネジ山が明瞭に残存している。ボルトネジ山の規格は当時イギリス等で使用されたものであることが報告されている。出土位置や層位から三重津海軍の稼働時期でも後期段階(慶応から明治初期頃)のもので、当時、佐賀藩が購入して運用していたイギリス蒸気船部品の可能性もあるとのことである。鉄鋲、ボルト共に化学分析が実施されており、洋鉄による製品との結果が報告されている。鉄鋲、ボルトは、在来技術でできない修船作業には海外の技術や材料、部品も積極的に取り込んで試行錯誤しつつ実施していたことを示す重要な遺物といえる。
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