翻訳家・雑誌編集長としてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 翻訳家・雑誌編集長としての意味・解説 

翻訳家・雑誌編集長として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:39 UTC 版)

延原謙」の記事における「翻訳家・雑誌編集長として」の解説

延原中学上級の頃からモーパッサン短編翻訳して友人見せるなどしていた。会社員になると、偶然見つけたコナン・ドイルの『四つの署名』を翻訳した。この原稿友人慶応大学教師井汲清治の目に留まり、井汲は雑誌新青年」の編集長森下雨村のもとに持ち込んだ。この原稿自体は「新青年」に掲載されなかったが、森下延原翻訳高く評価し1922年ごろから「新青年」に延原翻訳した小説掲載されるようになった翻訳家デビューの背景には、当時延原母親病気(母の文は翻訳デビュー同時期の1921年死去している)などにより資金必要だったこともあったとされている。 その後、「新青年」や他の雑誌翻訳創作小説発表し1928年には博文館入社して1928年10月号から1929年7月号まで「新青年」の編集長つとめた1929年には「朝日」、1931年には「探偵小説」の編集長となった1932年に「探偵小説」の編集長辞し、同じ時期博文館退社した満州事変以降情勢変化に伴い英米文学翻訳難しくなると、延原翻訳業見切りをつけ、1938年中国渡った。また同年5月10日に、勝伸本名延原克子旧姓岸田)と結婚した。ただし、入籍1938年であるが、実質的にそれ以前1928年から1929年ごろには婚姻状態にあった推定されている。なお、謙はそれ以前に、詳細不明であるが婚姻暦があり1928年離婚しているので、これが2度目の結婚となる。中国では、はじめ上海同仁病院短期間勤務しその後貿易業映画館経営携わった経営成功し江戸川乱歩によれば中国貨で数億円の財を成したといわれている。しかし終戦によって財産大陸残したまま帰国した帰国後は、春山行夫の跡を継いで1947年に「雄鶏通信編集長つとめたホームズ翻訳に関しては、一時期権利の関係で頓挫していたが、後に解消され1952年月曜書房よりホームズ全集完結させた。1958年信濃追分別荘を建て、「ホームズ庵」と名付けた晩年病気のため9年間にわたり寝たきりの生活となったその間は妻の克子看病した克子は、自分病気のときに夫が看病してくれたので、そのお礼だと思い看病続けたという。そして1977年6月21日急性肺炎により享年84死去した墓地は、生前気に入っていた場所という理由で、鎌倉市極楽寺にある。

※この「翻訳家・雑誌編集長として」の解説は、「延原謙」の解説の一部です。
「翻訳家・雑誌編集長として」を含む「延原謙」の記事については、「延原謙」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「翻訳家・雑誌編集長として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「翻訳家・雑誌編集長として」の関連用語

1
8% |||||

翻訳家・雑誌編集長としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



翻訳家・雑誌編集長としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの延原謙 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS