翻訳家・雑誌編集長として
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延原は中学上級の頃からモーパッサンの短編を翻訳して友人に見せるなどしていた。会社員になると、偶然見つけたコナン・ドイルの『四つの署名』を翻訳した。この原稿が友人の慶応大学教師井汲清治の目に留まり、井汲は雑誌「新青年」の編集長森下雨村のもとに持ち込んだ。この原稿自体は「新青年」に掲載されなかったが、森下は延原の翻訳を高く評価し、1922年ごろから「新青年」に延原が翻訳した小説が掲載されるようになった。翻訳家デビューの背景には、当時延原が母親の病気(母の文は翻訳デビューと同時期の1921年に死去している)などにより資金が必要だったこともあったとされている。 その後、「新青年」や他の雑誌に翻訳や創作小説を発表し、1928年には博文館に入社して、1928年10月号から1929年7月号まで「新青年」の編集長をつとめた。1929年には「朝日」、1931年には「探偵小説」の編集長となった。1932年に「探偵小説」の編集長を辞し、同じ時期に博文館を退社した。 満州事変以降の情勢変化に伴い英米文学の翻訳が難しくなると、延原は翻訳業に見切りをつけ、1938年、中国に渡った。また同年の5月10日に、勝伸枝(本名延原克子、旧姓岸田)と結婚した。ただし、入籍は1938年であるが、実質的にはそれ以前の1928年から1929年ごろには婚姻状態にあったと推定されている。なお、謙はそれ以前に、詳細は不明であるが婚姻暦があり1928年に離婚しているので、これが2度目の結婚となる。中国では、はじめ上海の同仁会病院に短期間勤務し、その後貿易業と映画館の経営に携わった。経営は成功し、江戸川乱歩によれば、中国貨で数億円の財を成したといわれている。しかし終戦によって財産を大陸に残したまま帰国した。 帰国後は、春山行夫の跡を継いで1947年に「雄鶏通信」編集長をつとめた。ホームズの翻訳に関しては、一時期権利の関係で頓挫していたが、後に解消され、1952年に月曜書房よりホームズ全集を完結させた。1958年に信濃追分に別荘を建て、「ホームズ庵」と名付けた。 晩年は病気のため9年間にわたり寝たきりの生活となった。その間は妻の克子が看病した。克子は、自分が病気のときに夫が看病してくれたので、そのお礼だと思い看病を続けたという。そして1977年6月21日、急性肺炎により享年84で死去した。墓地は、生前に気に入っていた場所という理由で、鎌倉市の極楽寺にある。
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