統合失調症と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 07:10 UTC 版)
1924年7月末夜半、巣鴨駅付近、東洋大学から大正大学に向かう白山通り路上を血まみれの浴衣姿で池袋の知人宅(ロンドンで知り合った新聞記者・箸本太吉)に向け人力車で通行中、折りしも爆弾テロ警戒中の警察官に職務質問され、帝国ホテル従業員に対する暴言、追いかけてきた右翼壮士により日比谷公園内で暴行を加えられ血だらけとなった、などを口にしたため、巣鴨警察署に検束される。警視庁監督官金子準二(東京警視庁技師)による精神鑑定の結果、統合失調症と診断され、巣鴨庚申塚の保養院に収容された。菊池寛は失脚後の清次郎に向け「島田清次郎を憫む」を『文藝春秋』に掲載した(1924年)。この菊池の生原稿は、その後も長く、文藝春秋社が開催する文藝史展などで「菊池寛の直筆原稿」として常時展示されることになる。 収容中に統合失調症は回復したと伝えられるが、結核と栄養失調に苦しみながらも執筆を継続。肺尖カタルが悪化、37度の発熱と下痢が続き、1930年(昭和5年)4月29日午前9時、死去した。享年31。この間「明るいペシミストの唄」など詩篇が発表されたりもし、その後も「超越者」、死の1か月前(2月11日)に擱筆し、絶筆となった自伝的長編小説『母と子』を書き上げるも未発表に終わる。1932年(昭和7年)、保養院々長・池田隆徳は「島田清次郎君の死」を発表。カルテ等は、第二次世界大戦末期に空襲で保養院が焼失したため現存しない。 墓は故郷石川県白山市市営共同墓地にあり、法名『釋清文』。「南無阿彌陀佛」と刻まれた墓の前に、虚しくも「文豪島田清次郎の墓碑(1957年、『地上』の映画化の折に建立された)」とある。島田には、別れた内縁の妻・豊(旧姓小林)との間に一子、良輔があったが、早稲田大学在学中の1945年(昭和20年)8月15日に死去した。豊は再婚し藤田姓となり成城から熱海へ転じ長く暮らした。 美川町は、1994年(平成6年)、当時日本で唯一の恋愛小説限定の文学賞である島清恋愛文学賞を制定し、町村合併以降も引き継がれている。
※この「統合失調症と死」の解説は、「島田清次郎」の解説の一部です。
「統合失調症と死」を含む「島田清次郎」の記事については、「島田清次郎」の概要を参照ください。
- 統合失調症と死のページへのリンク