経歴と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 03:43 UTC 版)
「ヘンリエッタ・ラックス」の記事における「経歴と死」の解説
ヘンリエッタは、実のいとこであったデヴィッド・ラックス1世(David Lacks I、1915年 – 2002年)とバージニア州ハリファックス郡で結婚した。北部で仕事を探しに行くようデヴィッドを説き伏せた彼女は、夫の後から、1943年に子どもたちを連れて北部へ移った。デヴィッドは、メリーランド州スパローズ・ポイント(英語版)の造船所で仕事を見つけ、現在のメリーランド州ボルチモア郡ダンドーク(英語版)の一部にあたる、当時のターナーズ・ステーションのニュー・ピッツバーグ・アヴェニュー (New Pittsburgh Avenue) に家を構えた。この地区は、当時のボルチモア郡におよそ40ほどあったとされる当時のアフリカ系アメリカ人コミュニティの中でも最も大規模なものの一つでありであり、また最も新しいものの一つでもあった。 ヘンリエッタとデヴィッドの間には5人の子どもが生まれた。末子ジョセフ・ラックス (Joseph Lacks) は、1950年11月にジョンズ・ホプキンズ大学の付属病院であるジョンズ・ホプキンズ病院で生まれたが、それはヘンリエッタが癌と診断される4ヶ月半前のことであった。 『デトロイト・フリー・プレス(英語版)』紙のマイケル・ロジャース (Michael Rogers)、『ローリング・ストーン』誌、レベッカ・スクルート(英語版)などによると、1951年2月1日、ニューヨークでポリオ(急性灰白髄炎)の根絶を求める大行進が行われた数日後、ヘンリエッタ・ラックスはジョンズ・ホプキンズ病院に行き、子宮頸部と膣に痛みを伴う「瘤」が出来ていると訴えた。このとき彼女は子宮頸癌に罹患していたのだが、診察した医師はこの癌を診た経験がなかった。 最初の治療が施される前に、ラックス本人の知らないうちに無断で、研究目的で癌腫から細胞が取り出された。ラックスは、1951年当時の標準治療であったラジウム・チューブの膣への挿入と縫合を施された。数日後、チューブは膣から取り除かれて、ラックスはジョンズ・ホプキンズ病院から退院し、その後はX線治療のために通院するよう指示された。ラックスはX線治療のために通院を始めたが、施術によって放射線で身体を焼かれることになってしまう。容態は悪化し、病院の医師たちはそれが何らかの隠れた性病によるものだと判断して抗生物質を与えた。強い痛みと改善しない容態を抱え、ラックスは再入院を求めて病院へ行ったが、治療と輸血を受けたものの、尿毒症を引き起こして1951年10月4日に31歳で死亡した。その後の部分的な検死によって、癌が体内各所に転移していたことが分かった。ラックスは、墓石もなくラックスタウン(後述)の家族墓地に埋葬された。このため、正確な埋葬の場所は分からなくなっているが、家族はそれが、母イライザの墓から数フィートも離れていない場所であると信じている。 ラックスタウン (Lackstown) は、バージニア州ハリファックス郡クローバー(英語版)の一部である。ラックスタウンという地名はこの土地を所有してきた家族の名にちなむものでおり、奴隷主であったラックス (Lax) という人物から土地を譲り受けた奴隷たちやその子孫の一族が、ラックス (Lacks) 家と名乗ったことに由来している。ラックスタウンの家族墓地には5つの墓があるが、墓石があるのはヘンリエッタの母イライザ・プレザントだけである。
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