経歴と発明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/24 07:08 UTC 版)
「メルヒオール・バウアー」の記事における「経歴と発明」の解説
1733年にザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国(現テューリンゲン州)アルテンブルク(Altenburg )のレーニッチュ(Lenitzsch )で生まれる。父親は庭師で、バウアー自身も造園を学んだ。彼は信仰の厚いプロテスタントであり、自由な時間を聖書の講読に当てていた。そして飛行機械によって人間が飛行可能であることを、彼は宗教的な必然と捉えていた。 バウアーの「空中車」はモミ材、絹、真鍮線から成る28平方mの翼面と、人力で動かされる推進用の可動翼を持っていた。これは「揚力と推力を別々に発生させる」という固定翼の発想の先駆であった。バウアーは1763年(一般に固定翼の祖として知られるジョージ・ケイリーがそれを着想したのは1790年代以降であった)にはこの考えを文書にし、領主ロイス=グライツ侯ハインリヒ11世 (en) に送っている。バウアーはこの文書で飛行機械の軍事利用についても言及している。 バウアーは七年戦争後にイギリスのジョージ3世へ、その後プロイセンのフリードリヒ2世に自らの発明を売り込んだが成功しなかった。1767年には領主ハインリヒ11世に再び書状を出したが、功を奏しなかった。しかし領主への書状は1921年にテューリンゲン州グライツ郡(Greiz)の城の古文書中から発見され、それによりバウアーの存在が後世の人間に知られるところとなった。 発見された文書には図面も含まれており、それを元にダルムシュタットの大学生チームが作った「空中車」のレプリカは20メートル以上の飛行に複数回成功している(1923年 - 1924年)。 メルヒオール・バウアーは1770年にレーニッチュの住居を引き払ったことが分かっているが、その後の消息は不明である。
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