米踏み労働
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:33 UTC 版)
丹後杜氏の発祥地であり、とくに多くの丹後杜氏が活躍した場は、伏見地方である。『伏見酒造組合誌』によれば、宇川地方の出稼ぎ労働者が最初に伏見に入ったのは江戸時代中期とみられる。1778年(安永7年)には丹後出身の出稼ぎ者に職場を紹介する丹後宿が形成されており、この宿の由来によれば当時の伏見酒蔵への出稼ぎ労働者は丹後、越前、丹波、広島の者が多かった。天保年間(1830~1843年)には「丹後勝」と呼ばれた小脇村出身の剛力者が、「確屋(うすや)」あるいは「唐臼屋」とも呼ばれた米踏み労働者として伏見へ出稼ぎに出向いていたことが特に記録される。 初期の酒蔵出稼ぎ者が従事した米踏作業は、唐臼で米を精米する単純な肉体労働で、そうした季節労働者の待遇は酒造り唄に「酒屋百日 乞食より劣る 乞食寝もすりや 楽もする」と歌われたように、言語に絶するものであった。冬の数カ月の出稼ぎで寝具を与えられることもなく、米俵が安眠の場所であったといい、「五ツ ごっそり這い出す 臼や(確屋)の寝床」とも歌われた。1886年(明治19年)頃に奈良の大和地方の酒蔵に出稼ぎに出たという丹後町鞍内出身者は当時の思い出を「ただ 足だけ動きゃあて きょうも あしたも あさっても 明けても暮れても 真白になって 六銭のやしい ききゃだ いうて(ただ足だけ動かして、毎日朝から晩まで 六銭の安い機械だと言われて)」と言葉少なに語っている。 やがて水車を動力として精米が行われるようになったことは酒蔵にとっても一大転機で、人間機械に等しかった米踏労働者の様相は一変した。長く出稼ぎをしてきた丹後出身者のなかには、米踏作業が主であった時代から蔵人として経験を積んでいた者もいたが、多くの者はこの時期に単純な頭数から酒造りの職人として進出するようになったと考えられている。伏見近郊で比較的早い時期、江戸時代の半ばから杜氏として酒造りに関わるようになった者は、越前杜氏の指導を受けて酒造りを覚えた。また、池田市辺りの酒蔵で学んだ者の中には丹波杜氏に師事した者もいたと伝えられる。 なお、伏見においては明治初年から大正期にかけて、京都疎水の落差を利用した水車動力による精米所が軒を連ねるようになっていた。1915年(大正4年)に電動力が導入されると、多くの酒造家は自家製米を行うようになったため、やがて水力精米所はすべて姿を消した。伏見に次いで多くの丹後杜氏が出稼ぎに赴いた大和方面における水車動力の導入は、これよりやや遅かった。
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