米軍「那覇空軍・海軍補助施設」
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沖縄戦と占領 沖縄戦の後、米軍は各種空港施設を建設し、小禄村具志の多くも既に軍用地として占領されていた。住民は民間人収容所に送られ、米軍が具志・宮城・高良・赤嶺の住民に帰村を許可したのは1947年8月のことであった。米軍はこの時点で既に小禄村の面積の70.45% を占有していたため、住む場所を奪われた住民は、米軍が廃棄したテントを張ったり、トタン葺きの仮住まいを建て、そこに何世帯かが同居することもまれではなかった。 戦前の小禄村は総面積3,099,846坪を所有しており、12部落で人口9,000人戸数1,800戸で、文化、経済、教育、その他のあらゆる側面で恵まれ県下でも屈指の裕福農村でありましたが、図らずも去った太平洋戦争の結果、戦前所有していた土地の70,45%(2,182,709坪)を軍用地に使用され、現在ではわずか1,924,277坪しか残されておらず、あまつさえ、人口は14,000に増加し、余儀なく密集生活をしているのであります。 — 小録村村長長嶺秋夫から1953年1月27日に琉球政府に提出された陳情書 具志の「銃剣とブルドーザー」 1953年12月5日、米国民政府はさらなる軍用地を強制接収するため具志に武装兵を出動させ、いわゆる銃剣とブルドーザーで残りの土地の約2.4万坪を強制接収し「那覇空軍・海軍補助施設」とした。 1953年: 字具志の土地約 49,500 ㎡を強制接収。
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