篠原一孝と男子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:48 UTC 版)
1591年、前田家の家臣としては、村井長頼と共に最初に叙爵された。従五位下、肥前守、出羽守、栄錦院殿卿󠄁岩道本大居士、17000石。豊臣姓が与えられている。当時、大名の家臣レベルでは、諸大夫(朝散太夫)は全国で12名しか存在していない。前田利家の死に際しては、徳川家康の動静を監視するために大坂に留まった前田利長に代わって利長の命で金沢まで神谷守孝と遺体を護送し、高畠定吉と共に葬儀を執行し、「利家の位牌」を持った。野田山御廟所の前田利家の墓石堂の造立施主も前田利長ではなく、篠原一孝である。「利家公遺言状(芳春院様御筆)」も芳春院(まつ)から一孝へ手渡されている。肥前名護屋での徳川との水(争い)事件(徳川家康家中と一孝配下の足軽の争いが発端)、河北門石垣の再築(「この所は御城の大手なり、石小にして見苦しく候」)など逸話にも事欠かない。前田利長の命で城内で横山長知に切り捨てられた太田長知の遺骸にたまたま登城した一孝が自分が着ていた羽織を脱いで掛けてやったり、禁教令により国外追放となった高山右近(高山南坊。村井長頼、篠原一孝とは不仲であった)護送役に関しては、自らの責任で唐丸籠を通常の籠に変え、佩刀を許可(右近が辞退)するなど、威あっても猛からずの一孝の性格がうかがわれる。金沢城の築城、石垣の建造、犀川からの引水、戸室石の切り出し、銀箔製作、家老・執政としての加賀藩藩政の確立など藩に残した功績は計り知れない。前田利家、一番のお気に入りの家臣(「遺言状」にも一孝のことが事細かに記されている)にとどまらず、藩政時代を通じて比肩する者のない、まさしく一等の家臣である。野田山墓地(金沢市)には「栄錦院殿前羽柴従五位郷岩大居士」と刻まれた笏谷石の宝篋印塔があり(篠原別家墓地)、高野山・前田利長五輪塔背後の6基の五輪塔(篠原家墓所)のうち一つが篠原一孝のものである。 一孝の男子は、長男・主膳一由(貞秀)、二男・出羽一次(隼人)、三男・監物重一(重孝)、四男・六郎(虎之助)の4人とされているが、長男・主膳一由と二男・出羽一次の間に左衛門という男子(二男)が存在していたことが確認できる。従って、二男・出羽一次以下が一つずれて、長男・主膳一由(貞秀)、二男・左衛門、三男・出羽一次(隼人)、四男・監物重一(重孝)、五男・六郎(虎之助)となる。四男・監物重一以外、皆、早世している(実際は、篠原別家を継承した監物重一も長生ではなく早世と言える)。
※この「篠原一孝と男子」の解説は、「篠原一次」の解説の一部です。
「篠原一孝と男子」を含む「篠原一次」の記事については、「篠原一次」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から篠原一孝と男子を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 篠原一孝と男子のページへのリンク