第二次世界大戦中・戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 15:10 UTC 版)
「日本における英語」の記事における「第二次世界大戦中・戦後」の解説
太平洋戦争(大東亜戦争)中、英語は敵性語として排斥された。一方、海軍兵学校においては、井上成美校長の信念で英語教育は継続されていたという。また、諜報員養成を行っていた陸軍中野学校でもその目的上、英語をはじめ敵国語の学習・使用はむしろ推奨されていた。 敗戦後の連合国軍占領下の日本(1945年 - 1952年)では、「ギブ・ミー・チョコレート(Give me chocolate.)」などのフレーズに象徴されるように、食べていくために英語を覚えた人たちもいた。 また、1945年(昭和20年)9月3日の「連合国最高指令部指令第二号の第二部十七」では、道路標識や駅名標識、公共施設の看板にヘボン式ローマ字と英語表記の使用命令が書かれた。連合国軍最高司令官総司令部は日本語のローマ字化も目指したが断念した。 進駐軍の駐留キャンプではジャズやカントリー&ウェスタンが演奏され、日本人も参加していた。このようなジャンルの歌は、進駐軍放送ラジオWVTR(後のFEN)でも流れた。アメリカ映画の上映なども含めて、英語が日常に現れた。 変動相場制や円高による海外旅行の一般化に伴い、英語を身に付けようとする人も増えた。カタカナ職業が登場し、英語由来の役職名も続々と導入された。我が子に、西洋人にもいるような名前を付ける一般人も出てきた(森鷗外など明治の文豪では既にそういう例もあった)。 アメリカの統治下にあった沖縄では英語が事実上の第二の公用語であった。現在でも英語教育を受けた高齢者や米軍基地内で従事して働く軍雇用員・米軍や兵士相手の商売をしている者・米国人と結婚した家族の間では英語を解す人は多い。
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