稼動した撮影所とは? わかりやすく解説

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稼動した撮影所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 04:34 UTC 版)

帝国キネマ」の記事における「稼動した撮影所」の解説

撮影所1920年1921年1922年1923年1924年1925年1926年1927年1928年1929年1930年1931年小阪撮影所 開所 -> -> -> -> 東邦 再開 -> -> 閉鎖 芦屋撮影所 開所 -> アシヤ 閉鎖 巣鴨撮影所 東京改称 -> -> 売却 長瀬撮影所 開所 -> 焼失 太秦撮影所 改称 改組 帝国キネマ小阪撮影所東大阪市小阪1920年 - 1929年1914年9月、「天然色活動写真小阪撮影所」として開所1920年5月から「帝国キネマ小阪撮影所」として稼動1923年の「芦屋撮影所開所を受け、1925年4月閉鎖同社から独立した立石駒吉が「東邦映画製作所」を設立、同撮影所復活したが「東邦映画」は2か月解散した。「帝国キネマ小阪撮影所」として復活した後、1929年内で完全閉鎖。NHK連続テレビ小説おちょやん」に登場した鶴亀映画 京都撮影所モデル知られる帝国キネマ芦屋撮影所兵庫芦屋市1923年 - 1925年1923年同社新設した。伊藤大輔によれば小阪時代劇芦屋現代劇、という建前になっていたが、芦屋には事務所しかなく、セット撮影はすべて小阪行っていたという。 1925年初頭同社退職した石井が同撮影所独立させ、「アシヤ映画製作所」を設立新体制の「帝キネ」に作品供給した1926年内で閉鎖帝国キネマ巣鴨撮影所東京巣鴨1925年 - 1928年1919年、「天然色活動写真巣鴨撮影所」として開所同年天活解体とともに国際活映巣鴨撮影所」となる。1923年6月国際活映退社した帰山教正映画芸術協会としての活動再開帝国キネマ興行部が配給することを前提に「帝キネ東京派」として映画を製作、その際レンタルしたスタジオが同撮影所であった。「帝キネ東京派」は同年9月1日関東大震災瓦解する1925年初頭の「国活倒産受けて帝国キネマ巣鴨撮影所」となる。 1928年河合徳三郎の「河合映画」が買収そして「河合映画巣鴨撮影所」、1933年、「大都映画巣鴨撮影所」を経て1942年戦時統合で「大映」のものとなる際に閉鎖詳細は「大都映画」を参照 帝国キネマ長瀬撮影所東大阪市長瀬1928年 - 1930年1928年開所1930年9月焼失短命に終わった東洋ハリウッド」である。詳細は「#長瀬撮影所」を参照 帝国キネマ太秦撮影所京都太秦1930年 - 1931年1925年、「阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所」として開所1930年松竹譲渡されたものを同社借り受け、「帝国キネマ太秦撮影所」として稼動するも、翌1931年同社改組にともない、「新興キネマ京都太秦撮影所」となる。1942年戦時統合で「大映第二撮影所」、戦後1947年の「東横映画撮影所」を経て1951年から「東映京都撮影所」となり、現在に至る。帝キネ5つ撮影所のうち、唯一現存する撮影所である。詳細は「東映京都撮影所」を参照

※この「稼動した撮影所」の解説は、「帝国キネマ」の解説の一部です。
「稼動した撮影所」を含む「帝国キネマ」の記事については、「帝国キネマ」の概要を参照ください。

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