種付けの苦戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 10:18 UTC 版)
こうした期待を受けて種牡馬入りしたウォーエンブレムだったが、いざ種付けしようとすると、ほとんどの牝馬に興味を示さなかった。牝馬によっては種付けを行うことから性機能障害でもないため、種付けを行わせるために数ヶ月をかけて様々な試行錯誤が行われた。主に多数の牝馬の中から、本馬が興味を示す牝馬への種付けなどが試みられ、無地(白い模様がない)の小柄な牝馬を比較的好むことがわかった。しかし、種付け作業は難航し、1年目はわずか7頭の種付けに成功しただけに終わった。 商業ベースでの種付けは不可能と判断され、シンジケートは初年度にして解散されることになった。また本馬には大手保険会社4社の保険が掛けられていたが、うち3社が合意して約16億円の保険金が支払われた。なお残りの1社は、種付けそのものが成功しているとして保険金の支払いを拒否している。 2年目となる2004年には、シンジケート解散後も引き続き社台スタリオンステーションで種牡馬続行に向けた取り組みが行われた。種付けする場所を変える転地療法として釧路へ移動し、好むタイプの牝馬で発情を促してから他の牝馬をあてがうという方法が試みられ、このシーズンは約50頭ほどの牝馬に種付けが出来た。しかし、やがて「好みのタイプではない」牝馬をあてがわれていることに気づいたウォーエンブレムは、交配を拒むようになってきた。 このため、翌2005年には種付け数9頭と激減。2006年に至っては種付け数が僅か1頭のみ、2007年は種付けすることが出来なかった。2006年の1頭は受胎しなかったため、産駒の頭数は2007年産・2008年産は続けてゼロとなってしまった。 しかし、2008年にペンシルベニア大学のマクダネル博士が行った治療 の結果、1日1頭ペースで種付け出来るまでの劇的な改善が見られた。2008年は39頭への種付けに成功している。翌2009年(2010年誕生分)には、過去最多となる69頭の牝馬に種付けを行いうち43頭が血統登録されたことで、今後の種牡馬生活に大きな期待が抱かれたが、2010年(2011年誕生分)には種付け頭数が5頭に激減してしまい、2011年(2012年誕生分)も19頭と苦戦が続き、2015年(2016年誕生分)の種付けをもって種牡馬を引退、ケンタッキー州ジョージタウンの功労馬繋養施設オールドフレンズで余生生活を送る事となった。同施設にはウォーエンブレムの三冠を阻止したサラヴァ(英語版)も繋養されており、「サラヴァの隣に放牧しよう」という声も出た。 アメリカ帰国後の2016年2月に去勢された。アメリカでは全ての輸入種牡馬に対して馬伝染性子宮炎の感染検査を義務付けており、その検査のため2頭の牝馬に試験的な種付けを行うことが求められている。しかしウォーエンブレムがいつものように種付けを拒んだため、検査自体を実施できなかった。検査を受けずにアメリカに居続けるための手段として、去勢という措置が取られた。
※この「種付けの苦戦」の解説は、「ウォーエンブレム」の解説の一部です。
「種付けの苦戦」を含む「ウォーエンブレム」の記事については、「ウォーエンブレム」の概要を参照ください。
- 種付けの苦戦のページへのリンク