福井からの痘苗伝播とは? わかりやすく解説

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福井からの痘苗伝播

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 21:17 UTC 版)

笠原良策」の記事における「福井からの痘苗伝播」の解説

嘉永3年1850年1月笠原近隣地域諸藩蘭方医に対して書状送って痘苗入手経緯説明し、分希望のあった府中鯖江大野敦賀大聖寺金沢富山痘苗分けていった。笠原もたらした痘苗越前各地隣国伝播した年月日その後経過は、以下のとおりである。 越前各地隣国への痘苗伝播その後経過藩・地域年月日おもな担当医その後経過福井藩府中 嘉永2年1849年12月5日 斎藤策順・渡辺静庵・生駒駿造 渡辺静実子、他3名に接種嘉永3年1850年9月10日嘉永4年1851年5月8日児2名と付添人府中派遣され、再伝福井藩金津 嘉永3年1850年4月11日 井代淡斎 金津除痘館開館嘉永3年1850年9月16日嘉永4年1851年10月2日再伝福井藩三国 - - 嘉永3年1850年3-5月伊藤泰順木村斎宮らが笠原社中入門するも、三国仲間の加印なく分せず。嘉永5年1852年4月11日三国天然痘流行金津連日4、5人ずつ接種幕府領本保 嘉永3年1850年6月21日 河野恭斎 府中社中から本保本陣にて伝鯖江藩鯖江 嘉永3年1850年3月9日 雨宮玄仲・土屋得所内藤道逸・内藤隆松原内次助・八百屋与兵衛小児2名と付添人鯖江派遣嘉永5年1852年3月9日除痘館再興のために再伝安政6年1859年3月17日-9月27日池田地域東俣組の37出張種痘万延元年1860年3月21日-8月14日池田地域市組の32出張種痘大野藩大野 嘉永3年1850年3月21日 林雲渓中村佐 大野の煙草屋小児接種9月17日風聞嘉永3年1850年)冬再伝大野藩織田村 嘉永6年1853年1月27日 小山養寿 鯖江藩糸生村内藤道逸より盗在々々へ出張不調法謝罪の上安政4年1857年)閏5月7日別館開館加賀藩金沢 嘉永3年1850年2月16日 黒川良安黒川元良・津田随分斎・明石昭斎 家児に接種、伝16日から種痘加賀藩役人および江戸屋敷内談中。 大聖寺藩 嘉永3年1850年4月27日 大武了玄岡澤終吉 小児連れてきて伝依頼嘉永6年1853年2月11日再伝依頼富山藩 嘉永3年1850年1月24日 横地元丈・高厳吉 伝安政2年1855年10月8に利再伝ガラス一具貸与小浜藩敦賀 嘉永3年1850年3月9日 吉田礼之亮・吉三郎 3名に接種、翌嘉永4年1851年3月10日、3名に接種ガラス板貸与その後敦賀では種痘植留(禁止)。 笠原は、京都から江戸福井藩邸へも痘苗送った江戸へ到着嘉永2年1849年11月28日で、翌29日霊岸島中屋敷半井仲庵(元冲、18121872年)が市川斎宮の娘に接種したのが福井藩邸での最初種痘であった。これより早く江戸には佐賀藩経由して痘苗到着しており、伊東玄朴から桑田立斎受継ぎ、半井は、11月18日からその種痘手伝うことで詳細な接種法実習した。なお、半井この年末松代藩に帰国予定であった佐久間象山に伝している。また、福井到着してからも12月16日江戸半井仲庵あてに、痘苗(「鮮」)1箱と種痘姓名録等を送っている。

※この「福井からの痘苗伝播」の解説は、「笠原良策」の解説の一部です。
「福井からの痘苗伝播」を含む「笠原良策」の記事については、「笠原良策」の概要を参照ください。

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