福井からの痘苗伝播
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翌嘉永3年(1850年)1月、笠原は近隣地域・諸藩の蘭方医に対して書状を送って痘苗入手の経緯を説明し、分苗希望のあった府中・鯖江・大野・敦賀・大聖寺・金沢・富山へ痘苗を分けていった。笠原がもたらした痘苗が越前各地や隣国に伝播した年月日とその後の経過は、以下のとおりである。 越前各地や隣国への痘苗の伝播とその後の経過藩・地域伝苗年月日おもな担当医その後の経過福井藩・府中 嘉永2年(1849年)12月5日 斎藤策順・渡辺静庵・生駒駿造 渡辺静庵実子、他3名に接種。嘉永3年(1850年)9月10日絶苗。嘉永4年(1851年)5月8日苗児2名と付添人が府中へ派遣され、再伝苗。 福井藩・金津 嘉永3年(1850年)4月11日 井代淡斎 金津除痘館開館。嘉永3年(1850年)9月16日絶苗。嘉永4年(1851年)10月2日再伝苗。 福井藩・三国 - - 嘉永3年(1850年)3-5月、伊藤泰順・木村斎宮らが笠原社中へ入門するも、三国仲間の加印なく分苗せず。嘉永5年(1852年)4月11日三国で天然痘流行、金津で連日4、5人ずつ接種。 幕府領・本保 嘉永3年(1850年)6月21日 河野恭斎 府中社中から本保本陣にて伝苗。 鯖江藩・鯖江 嘉永3年(1850年)3月9日 雨宮玄仲・土屋得所・内藤道逸・内藤隆伯 松原内次助・八百屋与兵衛小児2名と付添人を鯖江に派遣。嘉永5年(1852年)3月9日除痘館再興のために再伝苗。安政6年(1859年)3月17日-9月27日池田地域東俣組の37か村で出張種痘。万延元年(1860年)3月21日-8月14日池田地域市組の32か村で出張種痘。 大野藩・大野 嘉永3年(1850年)3月21日 林雲渓・中村岱佐 大野の煙草屋小児に接種、9月17日絶苗の風聞。嘉永3年(1850年)冬再伝苗。 大野藩・織田村 嘉永6年(1853年)1月27日 小山養寿 鯖江藩糸生村内藤道逸より盗苗、在々の村々へ出張。不調法を謝罪の上、安政4年(1857年)閏5月7日別館開館。 加賀藩・金沢 嘉永3年(1850年)2月16日 黒川良安・黒川元良・津田随分斎・明石昭斎 家児に接種、伝苗。16日から種痘。加賀藩役人および江戸屋敷へ内談中。 大聖寺藩 嘉永3年(1850年)4月27日 大武了玄・岡澤終吉 小児を連れてきて伝苗依頼。嘉永6年(1853年)2月11日再伝苗依頼。 富山藩 嘉永3年(1850年)1月24日 横地元丈・高桑厳吉 伝苗。安政2年(1855年)10月8に利再伝苗、ガラス器一具貸与。 小浜藩・敦賀 嘉永3年(1850年)3月9日 吉田礼之亮・吉田三郎 3名に接種、翌嘉永4年(1851年)3月10日、3名に接種、ガラス板を貸与。その後、敦賀では種痘植留(禁止)。 笠原は、京都から江戸の福井藩邸へも痘苗を送った。江戸への到着は嘉永2年(1849年)11月28日で、翌29日、霊岸島中屋敷で半井仲庵(元冲、1812~1872年)が市川斎宮の娘に接種したのが福井藩邸での最初の種痘であった。これより早く、江戸には佐賀藩を経由して痘苗が到着しており、伊東玄朴から桑田立斎が受継ぎ、半井は、11月18日からその種痘を手伝うことで詳細な接種法を実習した。なお、半井はこの年末松代藩に帰国予定であった佐久間象山に伝苗している。また、福井に到着してからも12月16日に江戸の半井仲庵あてに、痘苗(「鮮苗」)1箱と種痘姓名録等を送っている。
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