市川兼恭とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 市川兼恭の意味・解説 

市川兼恭

(市川斎宮 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/19 05:44 UTC 版)

市川兼恭

市川 兼恭(いちかわ かねのり、文政元年5月11日1818年6月14日) - 明治32年(1899年8月26日)は、幕末明治蘭学者。オランダ語、ドイツ語を修得。西洋兵学を学ぶ。姓は、幼名三輔。後、岩之進または斎宮、明治2年(1869年)9月逸吉に改める。号は浮天斎。父は広島藩藩医の市川文微。母は林氏政子。市川文吉は長男。

略歴

福井藩で砲術師範となった。幕府天文台訳員を勤め、蕃書調所開成所教授職を歴任。大番格砲兵差図役頭取勤方となる。電信機や活版印刷などの技術開発に携わる。維新後は陸軍兵学中教授となった。東京学士会院会員。

生涯

出自

遊学

福井藩

  • 嘉永3年(1850年) 福井藩の砲術師範となる。
  • 嘉永6年(1853年)10月23日 福井藩の和解方(天文方付属の翻訳局)に任命される。

蕃書調所

家族

逸話

清水卯三郎「和蘭文典前後編」によれば蘭学の文法書「セインタキス」を翻刻したのは箕作阮甫であるとしているが、市川兼恭「経歴談」[6]によると、市川が杉田のところにいた際に箕作から頼まれて版下を書き下ろして印刷したとある。[7]

著書

脚注

  1. ^ 安政元年(1854年)にマシュー・ペリーが幕府に献呈した。
  2. ^ 古賀謹一郎 万民の為、有益の芸事御開、190頁
  3. ^ 嘉永2年(1849年)にオランダ江戸幕府に献上した
  4. ^ 物産学は国家経済の根本であること、動植物や鉱物類の品質調査の必要性を説いた。『古賀謹一郎 万民の為、有益の芸事御開』、191頁
  5. ^ a b c d e f g h i 『市川兼恭』温知会, 1941, p95-98
  6. ^ #経歴談
  7. ^ #原平三講演
  8. ^ a b 幕末洋学史の研究

参考文献

関連項目

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「市川兼恭」の関連用語

市川兼恭のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



市川兼恭のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの市川兼恭 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS