木村浩吉 (海軍軍人)
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木村 浩吉(きむら こうきち、1861年8月28日(文久元年7月23日) - 1940年(昭和15年)1月14日[1])は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。従四位勲三等功四級。
経歴
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幕臣・木村芥舟の二男として江戸で生まれた。1870年、横浜で早矢仕有的の塾に学ぶ。1882年11月、海軍兵学校(9期)をハンモックナンバー第3位で卒業し、1885年8月、海軍少尉任官。日清戦争には「松島」水雷長として出征し、黄海海戦に参加した。そのときの海戦実記を詳細に記録し、出版したものが江湖の評判を呼び、また今も貴重な資料として残っている。
大本営御用掛、軍令部出仕、同部諜報課員、同部第3局員などを経て、海軍大学校で選科学生として学んだ。さらに、海大教官、「厳島」「敷島」の各副長、「愛宕」「扶桑」の各艦長、横須賀水雷団長心得、兼砲術練習所長などを歴任。日露戦争には、「日光丸」艦長として出征した。
1904年7月、海軍大佐に進級。佐世保鎮守府付、呉水雷団長、水雷術練習所長、海軍水雷学校長、佐世保水雷団長などを経て、1909年12月、海軍少将に進級。舞鶴水雷団長を勤め、1912年12月、予備役に編入され、1917年7月23日、後備役となる[2]。1922年7月に退役した。
栄典
- 位階
- 1890年(明治23年)10月15日 - 従七位[3]
- 1891年(明治24年)12月16日 - 正七位[4]
- 1897年(明治30年)3月1日 - 従六位[5]
- 1898年(明治31年)3月21日 - 正六位[6]
- 1903年(明治36年)5月20日 - 従五位[7]
- 1909年(明治42年)7月10日 - 正五位[8]
- 1912年(大正元年)12月28日 - 従四位[9]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)
- 1900年(明治33年)5月31日 - 勲五等瑞宝章[13]
- 1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章[14]
- 1904年(明治37年)5月27日 - 勲四等瑞宝章[15]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功四級金鵄勲章・勲三等旭日中綬章・明治三十七八年従軍記章[16]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[17]
家族
脚注
- ^ 『官報』第3922号、1940年2月5日。
- ^ 『官報』第1495号、大正6年7月25日。
- ^ 『官報』第2194号「叙任及辞令」1890年10月21日。
- ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
- ^ 『官報』第4096号「叙任及辞令」1897年3月2日。
- ^ 『官報』第4413号「叙任及辞令」1898年3月22日。
- ^ 『官報』第5963号「叙任及辞令」1903年5月21日。
- ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
- ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
- ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」明治28年11月29日。
- ^ 『官報』第3828号・付録「辞令」1896年4月7日。p4
- ^ 『官報』第5072号「叙任及辞令」1900年6月1日。
- ^ 『官報』第5820号・付録「辞令」1902年11月26日。
- ^ 『官報』第6271号「叙任及辞令」1904年5月28日。
- ^ 『官報』7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。
- ^ 『官報』第1311号・付録「辞令」1916年12月14日。p1
参考文献
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外部リンク
- 松島水雷長・木村浩吉大尉の見た黄海の海戦 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
- 木村浩吉_(海軍軍人)のページへのリンク