禁色勅許
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 23:51 UTC 版)
9世紀半ばより、臣下に対し、禁色を勅許することが見られるようになった。この禁色勅許は男性の場合、蔵人全般のほか、四位・五位の一部の殿上人に下され、彼らに公卿待遇の服装を認めるものであった。また女官・女房に対する禁色の許可もあった。禁色を許すことを「色を聴(ゆ)る」とも言った。 禁色の勅許は天皇一代限りのもので、代替わりの際には無効となった。また、五位から四位への昇進や蔵人退任の際にも無効となり、再度勅許を必要とした。 蔵人以外の殿上人への禁色勅許は、原則として大臣・近衛大将の子か孫に与えられる特権で、これらの禁色を許された殿上人を特に「禁色人」とも称した。12世紀半ばには、禁色勅許の対象者は、後の摂関家・清華家に相当する家の出身者に限定されるようになった。特に摂関家の嫡流は元服と同時もしくは直後に禁色を許される慣例となった。 禁色宣旨の例(「康富記」より) 征夷大將軍左馬頭源朝臣義成 正三位行權中納言兼右衞門督藤原朝臣持季宣 奉 勅件人宜聽著禁色者 文安六年四月廿九日 大炊頭兼大外記清原朝臣業―奉 (訓読文) 征夷大将軍左馬頭源朝臣義成(のちの足利義政、正五位下) 正三位行権大納言兼右衛門督藤原朝臣持季(正親町持季)宣(の)る 勅(みことのり、後花園天皇)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく禁色を著(き)ることを聴(ゆる)すべし者(てへり) 文安6年(1449年)4月29日 大炊頭兼大外記清原朝臣業忠(従四位上)奉(うけたまは)る 男性官人が禁色勅許によって許されたのは、公卿と同様の文様のある生地(綾)や色を下襲や半臂、表袴に用いることであり、これは直衣や指貫、青色袍等にも及んだ。禁色を許されていない四位以下の官人(参議除く)は文様のない平絹を使わなければならなかった。また、禁色勅許を受けても、位色を超えた袍の着用は認められなかった(ただし11世紀頃には、位色は四位以上が黒、五位が緋に変化していた)。 女性に対する禁色の許可は不明な点が多いが、10世紀初頭から天皇の乳母等に禁色を勅許する例が見られる。また女房の間の身分として、上臈や一部の女房のみに特定の服装を許すことが見られたが、『満佐須計装束抄』の記述等から、その中でも青色・赤色の唐衣や地摺りの裳を許すことを「禁色」と呼んでいたと考えられている。青・赤の唐衣は染色ではなく織色であり、地摺りとはステンシルの要領で草木の汁などで模様を染め出したものだが、宮中では金泥・銀泥を用いた豪奢なものであったという。女房の服装規定にはその他に、綾の制限や、袿の枚数の制限(数衣)等があった。
※この「禁色勅許」の解説は、「禁色」の解説の一部です。
「禁色勅許」を含む「禁色」の記事については、「禁色」の概要を参照ください。
- 禁色勅許のページへのリンク