神岡水電の発足
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 15:23 UTC 版)
黒部川の開発を断念した後、三井鉱山は出願していた高原川4地点における水利権のうち、「高原川第四水力」の水利権許可を1919年(大正8年)7月に取得。この許可以前に跡津川など高原川支流にて4地点の水利権を得ており、これですべての発電所が完成した暁には3万キロワット以上の発電が可能となった。だが、高原川第四水力の出願目的であった亜鉛の電解精錬は品質上の問題から断念されて実現しなかった上、土第一発電所が完成して鉱山への供給も間に合っていたため、神岡鉱山では大量に電力を消費する需要は存在しなかった。このことから、三井鉱山は開発にあたって余剰電力の販路を確保する必要が生じた。 こうした中、電力の販売先として浮上したのが日本水力株式会社である。同社は、三井物産出身の実業家山本条太郎や、関西の電力会社大阪電灯・京都電灯によって1919年10月に設立された新興の電力会社で、関西への電力供給を計画していた。三井鉱山はこの日本水力との間に、高原川開発の共同経営と最大4万7000キロワットの電力販売を契約。日本水力は岐阜県の船津から富山・金沢・福井・敦賀・琵琶湖西岸・京都を経て大阪へといたる長距離送電線の建設許可を得ていたので、この送電線を利用して発生電力を関西へと送電することとなった。 関西への送電線建設に至る前に日本水力は福澤桃介率いる木曽電気興業・大阪送電との合併して1921年(大正10年)2月に大同電力株式会社となったが、日本水力の権利義務は大同電力に引き継がれたので、三井鉱山の高原川開発の提携先は大同電力に変わった。そして翌1922年(大正11年)8月1日、三井鉱山が許可を取得ないし出願中の高原川本流・同支流の水利権を基礎として電気事業ならびに附帯事業を共同経営する目的で、三井鉱山と大同電力の共同出資により神岡水電株式会社が設立された。資本金は500万円(1929年7月の増資以降は1000万円)。代表取締役会長には三井鉱山の牧田環が就任し、取締役には大同電力の増田次郎など三井・大同から2名ずつ、監査役には両社から1名ずつが送られた。一方で新会社の職員はすべて三井鉱山からの出向であった。本社は東京市日本橋区本革屋町5番地(1932年12月室町2丁目1番地12と改称、現・中央区日本橋室町)に置いた。 会長となった牧田環は当時三井鉱山取締役で、1934年(昭和9年)より同社でも取締役会長を務める人物。1936年(昭和11年)に牧田が三井鉱山を引退し、次いで設立以来の神岡水電会長を1936年10月に辞任すると、取締役兼神岡水電建設事務所所長の大野徳風が取締役会長兼常務取締役という形で後任となる。大野が1938年(昭和13年)2月に死去すると3月尾形次郎(三井鉱山における牧田の後任会長)が第3代会長となるが、翌年3月に辞任、以後会長不在となった。
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