神学論争とグローティウス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 10:01 UTC 版)
「フーゴー・グローティウス」の記事における「神学論争とグローティウス」の解説
詳細は「アルミニウス主義」、「レモンストラント派」、および「ドルト会議」を参照 グローティウスは、ホラント州の法律顧問であるヨーハン・ファン・オルデンバルネフェルト(英語版)のもとで政治的キャリアを積むようになり、1605年にオルデンバルネフェルトのアドバイザーとなった後、1607年に、ホラント州、ゼーラント州、フリースラント州の財務の管理者となり、1613年にはロッテルダムのペンショナリー(英語版)となった。私生活ではマリア・ファン・レイゲスベルゲンと結婚し、8人の子をもうけた(但し、そのうち4人は夭逝)。 グローティウスがオルデンバルネフェルトのもとで働いていた時代とは、スペインとの戦争状態が12年間休戦状態になった時代であった。1609年、オランダはスペインとアントウェルペンにおいて、12年休戦条約を締結した。この結果、オランダを覆っていた外患は取り除かれ、国際的地位は向上することとなった。一方、オランダ国内では改革派の「予定説」の解釈をめぐる神学論争が起きた。 この神学論争の焦点は、アルミニウス派(中心はライデン大学の神学教授ヤーコブス・アルミニウス)が予定説の解釈に対して寛容であることを説いたことに対して、厳格に解釈することをホマルス派(中心は同じくライデン大学のフランシスクス・ホマルス)が主張した点にあった。グローティウスやオルデンバルネフェルトをはじめとするオランダの上流階層はアルミニウス派を支持する姿勢を示していた。一方で、ホマルス派の支持層は南部諸州から逃れてきた改革派の亡命者や難民、都市の下層民などであった。結果、神学論争はオランダ独立の過程での階級闘争、さらに国家と教会の間でどちらが上位に立つべきかという国家論に発展した。 1618年、ドルトレヒトにおいてドルト会議が開催された結果、ホマルス派の全面的勝利に終わり、オルデンバルネフェルトは1619年5月に国家反逆罪で処刑され、グローティウスは逮捕されレーヴェシュタイン城(英語版)に収容された。 1621年、妻の協力を得てグローティウスは脱獄に成功し、本1冊を胸に携え、一路パリへと亡命した。この本に関しては、アムステルダムのアムステルダム国立美術館とデルフトのPrinsenhofがそれぞれ自らが所有する本が、脱獄の際に持ち出した本を所蔵していると主張している。 パリに到着したグローティウスに対しフランス王ルイ13世は年金を与え、その生活を賄った。グローティウスはフランスにおいて、彼自身の著作の中で最も有名となる哲学の作品集を完成させることとなったのである。
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