祈祷の広がり
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「ファウスティナ・コヴァルスカ」の記事における「祈祷の広がり」の解説
1956年6月24日、教皇ピウス12世は、神の慈しみのイメージをローマで祝福した。これは第2バチカン公会議以前の事である。 1955年には教皇ピウス12世のもと、ゴルジョフ(Gorzów)司教が「最も聖なる贖い主、主イエスキリストの会衆(the Congregation of the Most Holy Lord Jesus Christ, Merciful Redeemer)」が結成され、神の慈しみへの祈祷は広がった。教皇ピウス11世と教皇ピウス12世の両名の元、神の慈しみへの祈祷を書くことは、多くの司教の印刷許可が与えられた。枢機卿アダム・ステファン・サピエハ(Adam Stefan Sapieha)と枢機卿アウグスト・ロンド(August Hlond)もこの印刷許可を与えた。教皇ピウス12世の間はバチカン・ラジオ放送局は数度、神の慈しみに触れた。 ファウスティナは死ぬ前に、次のように予言した。「戦争が起こるでしょう。恐ろしい、恐ろしい戦争が。」そして修道女たちにポーランドのために祈るよう頼んだ。1939年、ファウスティナの死後、ヤウブルジコフスキ大司教がファウスティナの予言が実現するのに気付いた。大司教は神の慈しみのイメージを一般大衆も近付くことを許可した。その結果、大群衆が神の慈しみのイメージの前に群がるという結果になった。神の慈しみはポーランドにおける多くの人々の強さと霊性の源となった。1941までにはこの祈祷はアメリカ合衆国に届けられ、数百万の神の慈しみの祈りのカードがプリントされ、世界中に広まった。 1942年にはヤウブルジコフスキ大司教がナチスに捕らえられ、そしてソポチコ神父や他の大学教授はヴィリニュスの近くに2年ほど避難をしていた。この期間を利用して、ソポチコ神父はファウスティナの伝えた神の慈しみを基本とした新しい会衆を組織だてる準備をしていた。戦後、ソポチコ神父は会衆の規約を作成し、神の慈しみの姉妹たちの会衆を組織だてる手伝いをした。ファウスティナの死後1951年までには、150の神に慈しみのセンターがポーランドに出来た。 教皇ピウス12世は獲得できなかったが、教皇庁にいたアルフレード・オッタヴィアーニ枢機卿(Alfredo Ottaviani)がファウスティナの業績のリストを1959年に新しく選出された 教皇聖ヨハネ23世に手渡した。1959年3月6日に教皇庁は次の様な通知書を交付し、ヒュー・オフラハーティ司教補佐が公証人として署名した。「シスター・ファウスティナによる神の慈しみのイメージの発行・循環と神の慈しみへの崇敬について記述することを禁止する この教皇庁の否定的な見解は、両方とも不完全なフランス語によるものである。。」日記の翻訳は神学上困難で、イエスが特定の信仰的な行為によって完全な罪の赦しするというのは、これは秘跡を受けることによって得られるものであるとか、これはファウスティナ自身の過度な信じ込みとも考えられるなどのクレームが付いた。 この禁止令は約20年間続いたが、そうしている間に話は変わり、カロル・ヴォイティワ(Karol Wojtyła)大司教・後の聖ヨハネ・パウロ2世が1965年に教皇庁の幹部に接触を始めファウスティナの人生が有益で意義があったことを伝えた。すると、1978年4月15日「信仰の教義のための会衆について」という新しい通知が出され、それは、以前のものを逆にして、ファスティナの著作物の循環を禁止することを取り消した。それは次の様に命じている。「この神聖な会衆に 1959年には知られていなかった多くの独自文書から判断すると、非常に状況の変更をすることが考えられる。そして、一般のポーランドの人々のことを考慮し、もはや既に通知された文書にある禁止は結び付かないことを宣言する。」 「そのため 『信仰の教義のための会衆について』は『新しい通知として』・・・『神聖な会衆』には神の慈しみへの崇敬が広がることへの障害となる部分はもはや存在しない。と宣言している。
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