研究室独立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/26 10:08 UTC 版)
この頃に独立して自分の研究室を立ち上げ、1940年には日東紡績から派遣されてきた間宮保三、松井信七とともにポリアクリロニトリルを濃硫酸に溶かして透明で強度の高い合成繊維を得ることに成功した。この繊維は「シンセン」と命名されて1941年に特許が成立し、1944年に空襲で間宮が亡くなった事もあって研究は中断したが、溶媒を濃硝酸に変えて1959年に旭化成からカシミロンという名称で商品化されている。 1944年7月には、加工プロセスにより生ゴム溶液の導電率が変化する事を明らかにした『天然ゴムおよび合成ゴムの基礎的研究』で東京帝国大学から工学博士号を取得している。戦争末期は空襲の被害にあった研究者を自宅に収容しながら業務を続け、風船爆弾や飛行機の風防ガラスなどの研究も行なっていた。 第二次世界大戦が終わると、ゴムの加硫工程における基礎的な知見の解明を研究テーマとし、天然ゴムと硫黄の反応生成物を硫酸-過酸化水素で酸化して硫黄架橋の構造を明らかにするなどの成果を挙げた。1946年には教授に昇任し、1952年に文部省の海外派遣留学生制度が復活するとその第一陣の一人として渡米した。ブルックリン工科大(現・ニューヨーク市工科大学(英語版))やマサチューセッツ工科大学、アクロン大学(英語版)などで学んだ。 2年間の留学後、通産省の依頼を受けて、加藤辨三郎を団長とする合成ゴム工業調査団に参加し、アメリカおよびヨーロッパ各地のタイヤ工場および石油化学工場を視察した。帰国後はその経験を活かし、日本開発銀行や日本興業銀行のコンビナート向け融資の技術審査などにも携わっている。 研究面では、1953年の発見を受けてチーグラー・ナッタ触媒を扱うようになり、三井化学との共同研究などを行なった。同触媒の研究はポリアセチレンの合成へと発展し、後に教え子である白川英樹のノーベル化学賞受賞の研究につながっている。1962年から翌年にかけて日本ゴム協会の会長を務めた。1971年から3年間、高分子学会の会長を務めた。
※この「研究室独立後」の解説は、「神原周」の解説の一部です。
「研究室独立後」を含む「神原周」の記事については、「神原周」の概要を参照ください。
- 研究室独立後のページへのリンク