研究の発表と誤解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 14:42 UTC 版)
「センメルヴェイス・イグナーツ」の記事における「研究の発表と誤解」の解説
1847年までに、センメルヴェイスの研究はヨーロッパ中に広まりつつあった。彼とその生徒たちは、主だった産科病院の理事たちに手紙を書き、研究成果を伝えた。オーストリアの主要な医学雑誌の編集者だったフェルディナント・フォン・ヘブラは、1847年12月と1848年4月の2度にわたり、誌上でセンメルヴェイスの発見を紹介した。ヘブラは、この発見がエドワード・ジェンナーの種痘法発明に匹敵するほどに重大なものであると主張した。 1848年後半、センメルヴェイスのかつての教え子の一人が、彼の業績の解説書を出した。これはロンドンの王立医学・外科協会で紹介され、有名な医学雑誌ランセットに書評が掲載された。数か月後には、また別の教え子が書いた同様の解説がフランスの雑誌に掲載された。 ウィーンにおける劇的な死亡率低減という成果がヨーロッパ中を駆け巡ったことで、センメルヴェイスは塩素消毒が広く受け入れられ、何万もの人名が救われると思っていた。しかし彼の元に届く反応の中には、後のトラブルの予兆ともいえるものがあった。彼の説に触れた医師の中に、明らかにこれを誤解する者がいたのである。例えばイギリスのジェームズ・ヤング・シンプソンは、センメルヴェイスの研究は1843年に産褥熱が伝染性であることを示唆したオリバー・ウェンデル・ホームズの研究と大して違いが無い、と考えた。センメルヴェイスの研究に対する初期の反応は、このように「彼は何も新しいことは言っていない」というものが主であった。 センメルヴェイスの研究の真に画期的だった点は、産褥熱患者から発する特定のものに限らない、あらゆる腐敗性有機物について警鐘を鳴らしたところにあった。それが無視されてしまったのは、彼の研究成果が同僚や教え子たちなどによる二次的な形でしか発表されなかったところにも問題があった。この大事な時に、センメルヴェイス自身はまだ一つも自身の成果を著述し発表していなかったのである。こうして初期に広まってしまった誤解のために、センメルヴェイスの発見は19世紀を通じて疑義を呈され続けてしまったのである。 一部の文献では、センメルヴェイス自身が自説をウィーンの学界と共有したり出版したりするのを避けていた、ということを強調している。
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