研究と見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 16:17 UTC 版)
「自由貿易#自由貿易に関する見解」も参照 最初期の保護貿易論としては、スコットランドの経済学者ジェイムズ・スチュアート (経済学者)(英語版)があげられる。スチュアートは著書『経済の原理』(1767年)において、商業の発達が封建制からの自由をもたらしたと述べた。そして商業の発達で商品生産が増えると、農業と工業の社会的な分業が起きるが、分業が順調にすすむためには有効需要が必要であるとした。スチュアートによれば、この有効需要を調整するための政策が、国家による保護貿易だった。スチュアートの保護貿易政策には、輸出産業の奨励、育成すべき製造業の選択がある。スチュアートはまた、消費者と供給者の利害や、農業と工業の利害は、貿易においては一致しないと論じた。 トマス・マルサスは、『人口論』(1798年)や『経済学原理』(1820年)において、食料調達の必要性から農業の保護を主張した。穀物を自給できる国家は農業と工業の並立を目指すべきであり、農業国と工業国の国際分業は一時的であると否定的な見解を述べている。実態としては、マルサスの指摘ののちも農業国と工業国の国際分業は継続した。 フリードリッヒ・リストは『政治経済学の国民的体系』(1841年)で、工業化のための保護貿易を主張した。リストは国民経済の発展を(1)農業段階、(2)農工業段階、(3)農工商業段階に分けて、(1)と(3)においては自由貿易、(2)においては工業化のための保護関税が必要とした。リストが生きた時代のドイツは統一の途上にあったため、リストはイギリスの自由貿易政策について、ドイツの国民形成や工業化をさまたげるとして批判した。そして、ドイツ中心の経済圏を作るための関税同盟の拡大や、オーストリア、ハンガリー、トルコへの植民の必要性を論じた。リストの思想は、アメリカのハミルトンや、イギリスの国民公正貿易運動にも影響を与えている。開発経済学における輸入代替工業化論の先駆けでもあった。 1881年からイギリスで形成された国民公正貿易運動は、イギリスのみが国家の援助なしに競争をすることが不公正であるとして、結成宣言に次のような内容を含んでいた。(1)通商条約の更新停止、(2)国内産業の原料輸入を無関税とする、(3)イギリス製品を無関税で受け入れない国の製品に関税を課す、(4)外国からのあらゆる食料に関税を課す、というものである。国民公正貿易運動の議長にはロイズ銀行のS・S・ロイド、幹部には毛織物業者のW・F・エクロイドなど、他国の保護主義によって損害を受けた業者がいた。E・E・ウィリアムズの『メイド・イン・ジャーマニィ』のように、イギリス産業が衰退してドイツ製品が急増しているという扇動的な内容の書物も出版されている。
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