着任までの経緯
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「ロバート・クリフトン・ウィーヴァー」の記事における「着任までの経緯」の解説
ケネディ大統領時代に立ち上がった住宅都市開発省の設立構想は、政権がジョンソン大統領に交替した後の1965年になってようやく承認された。その当時、初代長官としての最右翼にウィーヴァーの名前が挙げられてはいたが、明確な就任要請は取り付けられていなかった。ジョンソン大統領自身も、個人的にはウィーヴァーを初代長官の候補として考えていはいたが、ポストを内定するには至らなかった。ジョンソンは大統領はウィーヴァーを初代長官とすることの是非を巡って、全米黒人地位向上協会事務局長ロイ・ウィルキンズと論議を交わし、賛否双方の立場からウィーヴァーの適正について検討した。 ジョンソン大統領とウィルキンズ事務局長は、ウィーヴァーの着任は肯定的な注目を受けるであると予想した。ただしジョンソン大統領は、ウィーヴァーが政治的誤解を招きかねない人物であることも考慮していた。住宅都市開発省創設の議会投票の前、ジョンソン大統領がウィーヴァーについて「千の言葉を用いて罵ってやりたいほどの、バカ野郎だよ」と言及したところ、ウィーヴァーはその言葉通りのパフォーマンスを行った。またウィーヴァーは、住宅資金公団の長官として、少なくとも中産階級にとっては不利益とならない制度をつくるべきとの指針を示していた。住宅都市開発省の創設には貧困層の救済という名目があったため、ウィーヴァーは中産階級に対する考慮という観点なしには、住宅都市開発省の創設に協力することは難しいと示唆していた。しかしながら住宅都市開発省の創設の功労者であるウィーヴァーを初代長官として指名しなければ、ウィーヴァーが政治の犠牲者とされ、政府が非難される可能性があった。ウィーヴァーには少なくとも、何らかのポストを与える必要があった。ジョンソン大統領は、ウィーヴァーが就任指名を受け入れなかった際にも、別のポストを提供する意思があることを個人的に示した。 ジョンソン大統領は、住宅都市開発省の初代長官としてウィーヴァー以外の人物も検討し、あらゆる戦略を練った。だがその候補者の中に、黒人は含まれていなかった。ジョンソン大統領は、組織の長としての資質があるだけではなく、民衆に興奮を与えられる仕事をできる人物を望んでいた。候補者の1人は「黒人は自分の身の回りの世話をできるだろうが、私はそれ以上のことを黒人に与えられる」と述べた。ジョンソンは南部民主党員との関係を懸念し、そのような人物には見切りをつけた。ジョンソン大統領は有力な候補として、シカゴ市長リチャード・デイリーやロックフェラー兄弟財団会長ローレンス・ロックフェラーを挙げた。またシカゴノースウェスタン鉄道社長ベンジャミン・ハイネマンや国務省特別顧問バーン・バーナードを次官候補として挙げ、ウィーヴァー体制から段階的に権限を委譲させることも検討した。 最終的に、ジョンソン大統領は、ウィーヴァーが最良の初代長官候補であると結論付けた。ジョンソン大統領はウィーヴァーと1966年1月3日に簡単な会談を行った。そのときの様子について、後に黒人初の連邦最高裁判事となるサーグッド・マーシャルは、「彼(ウィーヴァー)は100パーセント信用できる」と言っていたと述べた。1966年1月5日、ジョンソン大統領は初代長官としてウィーヴァーを起用することの有用性について、大統領報道官ビル・モイヤーズから報告書を受け取った。そしてジョンソン大統領は、報告書の内容を鑑みた上で、住宅都市開発省の初代長官としてウィーヴァーを起用することを決断した。 ジョンソン大統領が受け取った報告書によると、ウィーヴァーは他のどの候補よりも精力的に仕事をしており、ほとんど不可能とも思える職務でさえ遂行していると書かれていた。そしてウィーヴァーは協調精神が強く、見た目よりも情熱的・刺激的で、より知性的であると記述されていた。ウィーヴァーはこの報告書を介して、ジョンソン大統領に強い印象を与えた。ジョンソン大統領はウィーヴァーを寛大で進歩的なアフリカ系アメリカ人であると確信し、ウィーヴァーに対して住宅都市開発長官への就任要請を出した。ウィーヴァーはこれを受諾した。そしてジョンソン大統領が報告書を受領してから10日後の1966年1月15日、ウィーヴァーは連邦上院の承認を獲得した。ウィーヴァーは1966年1月18日に初代住宅都市開発長官として着任した。
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