相乗り・オール与党の時代へとは? わかりやすく解説

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相乗り・オール与党の時代へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:03 UTC 版)

革新自治体」の記事における「相乗り・オール与党の時代へ」の解説

1976年第34回衆議院議員総選挙では中道公明民社両党が議席伸ばし社会党伸び悩む。しかも江田社公民路線右派の主要メンバー軒並み落選し協会派は党のポスト独占する江田社会党見切りをつけて離党社会市民連合結成する直後急死する公明民社両党は少数与党となっていた自民党接近し自公民路線模索される。1977年第11回参議院議員通常選挙では社会共産両党が議席減らし、更にこの直後釧路市長選挙では、党内評価高かった山口哲夫自公民系の新人鰐淵俊之敗れた社会党では敗北責任をとって、協会派の執行部は総退陣した。代わって委員長となった飛鳥田は横浜市長辞任し後任市長には、飛鳥田の判断公明民社新自由クラブ推す細郷道一相乗りした。1978年京都府知事選で、蜷川不出馬社公民三党は山田芳治推すが、社会民社両党は労組まとまらず自民党林田悠紀夫大敗喫す美濃部都政は、1977年都議選与党の社共公三党が敗北自民党復調し新自由クラブキャスティング・ボードを握る。美濃部地方債起債自治省握られていることについて違憲訴訟起こすことの同意求めたが、新自由クラブ自治省からの働きかけ受けて反対否決された。美濃部自治省労組板挟みとなり、首相官邸全面降伏せざるを得なかった。1979年美濃部都政は終わる。知事選で社共両党は元総評議長の太田薫擁立したが、自公民三党の鈴木俊一敗れる。大阪府知事選では社共両党の不和から社会党公明党擁立した岸昌自民民社とともに相乗りして革新分裂となり、黒田敗れてここでも革新府政終わった一般的にはこの1979年統一地方選をもって革新自治体時代終わったとされている。 この頃から社会党衰退激しくなり、1980年社公連合政権構想締結共産党との断絶決定的となる。地方首長選で社会党単独候補当選する見込みはなく、かといって共産党共同推薦を行うことはもはや不可であったため、多く自治体では保守・中道系の候補相乗りするか、自主投票をするという選択をとった。首長与党になって利益に与れることから前者選択多く1983年第10回統一地方選挙では市長選の6割が相乗り候補当選となった以降地方首長選挙では、東京都知事選など一部大都市選挙除き共産党を除く保革相乗り候補当選常態化するようになる

※この「相乗り・オール与党の時代へ」の解説は、「革新自治体」の解説の一部です。
「相乗り・オール与党の時代へ」を含む「革新自治体」の記事については、「革新自治体」の概要を参照ください。

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