発案から隆盛とは? わかりやすく解説

発案から隆盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 15:10 UTC 版)

雀刺し」の記事における「発案から隆盛」の解説

▲1七香-1八飛体制の例は1947年昭和二十二年)3月4日行われた第六期名人戦第一局、△木村義雄名人対▲塚田正夫八段戦出現している。先手塚田は▲1六歩-△1四歩型に矢倉3七銀棒銀から1七香・1八飛と構えて端を攻め新し構想打ち出している。観戦記者倉島竹二郎は「果然塚田八段放った1七香、1八飛の奇襲名人戦最初に現れ端歩攻め」と、驚きをもって戦法出現報道している他、後に対局者木村十四世名人自戦記で「なお、塚田氏の1七香、1八飛の駒組みは、現在では雀刺し呼ばれている」と記している。 後述する雀刺し飛車先を▲2六歩で止めて▲2五桂~1三桂成とする攻撃方法創案者は升田幸三実力制第4代名人と言われている。▲2六歩の一歩止めルーツは、遡る角落ち矢倉戦法あらわれているという。そして 寛政年刊の『象戯指南車』を改題したとされる将棊自在』に、現在も知られる右四間飛車から▲2六歩止めで▲2五桂△2四銀▲4五歩開戦する矢倉崩し示されている。 観戦記者東公平によると、升田1953年頃から棋戦採用し始めたという。第1号局は1953年7月1日 王座戦、▲丸田祐三戦とされ、丸田銀矢倉+▲8八銀型で迎え撃ち勝利している。その後1953年8月1日 王将戦原田泰夫 戦(先手8八金型)、1953年9月3日本間爽悦 戦(先手菊水型)、1953年10月8日熊谷達人 戦(▲8六銀-3七角型)、1954年3月6日 順位戦花村元司 戦(先手8八金ー▲9六歩型)と、升田はいずれ後手番で採用し相手側の陣を歪ませておき、途中で飛車を8筋に戻している。そして、升田流の3七戦法三人目対戦となった本間はおれを古馬鹿にした指し方とみると同時に腹を立てたというが、やられてみると、やはり升田さんは天才だなと新戦法威力降参しつつ賛辞呈したという。 この升田流が矢倉戦法における新し感覚として注目され当時棋界にわかに指されることになったという。 一方で1954年4月12日 名人戦、▲大山康晴 戦では先手大山採用後手升田は△1四歩ー2二玉型迎え撃っている。 その後升田以外は、ほとんどを先手番での作戦として指した以後トップクラス棋士の間で指されるようになり、中でも1979年名人戦は「雀刺しシリーズ」と呼ばれたほど、雀刺し登場した名人戦対局者一人であった米長邦雄執筆強豪向け定跡書『米長将棋』の矢倉戦法の巻は、8割以上を雀刺し占めている。 しかし、天敵棒銀判明する。▲8八玉型棒銀側が有利と分かったため▲7九玉型移っていったものの、受け潰しなりかねず、次第減っていった。そして後手菊水矢倉しゃがみ矢倉などとも呼ばれる)に組まれると、後手玉が2一にいるため十分な脅威与えられなくなるのが決定的だったいかにも雀刺しらしい端への速攻作戦うまくいかないことで、その後はいつでも攻めるぞと雀刺し態勢だけを組んで相手陣を2二銀や2二金、2四銀の手誘って反対先手玉頭方面盛り上げや、相手銀の左右分裂によって中央薄くなるのでそちらに攻撃視準合わせるなど、態勢作りながら端を攻めるのではなく別の戦いにするという方向進んで速攻性を失っていった。

※この「発案から隆盛」の解説は、「雀刺し」の解説の一部です。
「発案から隆盛」を含む「雀刺し」の記事については、「雀刺し」の概要を参照ください。

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