発案から隆盛
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▲1七香-1八飛体制の例は1947年(昭和二十二年)3月4日に行われた第六期名人戦第一局、△木村義雄名人対▲塚田正夫八段戦で出現している。先手の塚田は▲1六歩-△1四歩型に矢倉3七銀の棒銀から1七香・1八飛と構えて端を攻める新しい構想を打ち出している。観戦記者の倉島竹二郎は「果然、塚田八段が放った1七香、1八飛の奇襲、名人戦最初に現れた端歩攻め」と、驚きをもって新戦法出現を報道している他、後に対局者の木村十四世名人は自戦記で「なお、塚田氏の1七香、1八飛の駒組みは、現在では雀刺しと呼ばれている」と記している。 後述する雀刺しの飛車先を▲2六歩で止めて▲2五桂~1三桂成とする攻撃方法の創案者は升田幸三実力制第4代名人と言われている。▲2六歩の一歩止めのルーツは、遡ると角落ちの矢倉戦法にあらわれているという。そして 寛政年刊の『象戯指南車』を改題したとされる『将棊自在』に、現在も知られる右四間飛車から▲2六歩止めで▲2五桂△2四銀▲4五歩と開戦する矢倉崩しが示されている。 観戦記者の東公平によると、升田は1953年頃から棋戦で採用し始めたという。第1号局は1953年7月1日 王座戦、▲丸田祐三戦とされ、丸田は銀矢倉+▲8八銀型で迎え撃ち勝利している。その後も1953年8月1日 王将戦▲原田泰夫 戦(先手8八金型)、1953年9月3日 ▲本間爽悦 戦(先手菊水型)、1953年10月8日 ▲熊谷達人 戦(▲8六銀-3七角型)、1954年3月6日 順位戦▲花村元司 戦(先手8八金ー▲9六歩型)と、升田はいずれも後手番で採用し、相手側の陣を歪ませておき、途中で飛車を8筋に戻している。そして、升田流の3七桂戦法の三人目の対戦者となった本間はおれを古馬鹿にした指し方とみると同時に腹を立てたというが、やられてみると、やはり升田さんは天才だなと新戦法の威力に降参しつつ賛辞を呈したという。 この升田流が矢倉戦法における新しい感覚として注目され、当時の棋界でにわかに指されることになったという。 一方で1954年4月12日 名人戦、▲大山康晴 戦では先手の大山が採用。後手升田は△1四歩ー2二玉型で迎え撃っている。 その後升田以外は、ほとんどを先手番での作戦として指した。 以後トップクラスの棋士の間で指されるようになり、中でも1979年の名人戦は「雀刺しシリーズ」と呼ばれたほど、雀刺しが登場した。名人戦の対局者の一人であった米長邦雄執筆の強豪向け定跡書『米長の将棋』の矢倉戦法の巻は、8割以上を雀刺しが占めている。 しかし、天敵が棒銀と判明する。▲8八玉型は棒銀側が有利と分かったため▲7九玉型へ移っていったものの、受け潰しになりかねず、次第に減っていった。そして後手に菊水矢倉(しゃがみ矢倉などとも呼ばれる)に組まれると、後手玉が2一にいるため十分な脅威を与えられなくなるのが決定的だった。いかにも雀刺しらしい端への速攻作戦がうまくいかないことで、その後はいつでも攻めるぞと雀刺しの態勢だけを組んで、相手陣を2二銀や2二金、2四銀の手を誘って、反対の先手玉頭方面の盛り上げや、相手銀の左右分裂によって中央が薄くなるのでそちらに攻撃の視準を合わせるなど、態勢を作りながら端を攻めるのではなく、別の戦いにするという方向に進んで、速攻性を失っていった。
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