瑜祇灌頂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)
御産祈祷がうまくいかなかった後も、後醍醐から禧子への愛情は不動だった。 後醍醐天皇護持僧である文観房弘真の高弟の宝蓮が著した『瑜伽伝灯鈔』(正平20年/貞治4年(1365年))によれば、元徳2年(1330年)11月23日、後醍醐天皇は霊夢のお告げがあったとして、文観に命じ、禧子に灌頂(かんじょう)と瑜祇灌頂(ゆぎかんじょう)という儀式を受けさせている。 厳密には、原文では禧子ではなく「皇太后」と書かれており、禧子が皇太后となるのはこれより後の元弘3年(1333年)のことなので時期が合わないが、仏教美術研究者の内田啓一は、著者は過去遡及的に禧子を皇太后と書いたのであろうと推測している。霊夢を見たのが後醍醐なのか禧子なのかは、原文からは判別が付かない。 この瑜祇灌頂というのは、真言密教における究極最秘の神聖な儀式とされており、これを通過することは密教修行者にとっての事実上の最高到達点である。これより上は即身成仏しかない。この約1か月前の10月26日には、後醍醐自身が瑜祇灌頂を受けている。後醍醐の肖像画として最も著名な『絹本著色後醍醐天皇御像』(重要文化財、清浄光寺蔵)も、この瑜祇灌頂の時の様子を描いたものである。著者の宝蓮によれば、高僧が帝王とその正妃の両方に瑜祇灌頂を授ける事例は、三国(インド・中国・日本)のいずれの国においてもこれまで先例がなかったという。 内田の主張によれば、後醍醐天皇自身の密教修行に特に変わった点はないが、例外的に禧子へのこの寵遇は異例中の異例であるという。瑜祇灌頂については、確かに天皇が受けた先例がないのは事実ではあるが、別に後醍醐自身に関しては唐突にこの儀式を受けた訳ではなく、それに足るだけの密教修行者としての経験と実績は、それまでに着々と積んできている。しかし、禧子に関してはいきなり同日中に結縁灌頂・伝法灌頂・瑜祇灌頂という一連の流れを受けており、相当な強行手段である。ただ、当時の人間にとっては、「夢のお告げ」というのは現代人が思う以上に尊重されるものであり、ましてそれが天皇あるいは中宮の夢とあれば、文観も断ることが出来なかったのであろうと考えられる。 内田の推測によれば、夢のお告げという体裁にして、後醍醐はどうしても夫婦お揃いで同じ神聖儀式を受けたかったのだろうという。
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