現夢の一生とは? わかりやすく解説

現夢の一生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/17 06:52 UTC 版)

遠藤現夢」の記事における「現夢の一生」の解説

1864年文久4年)、会津藩お膝元である会津若松商家瀧口太右衛門醸造業)の12男として生まれ、同じ醸造業醤油製造をいとなむ遠藤家養子となり、幼少より剣術習って真一刀流を極めた自宅にも道場をつくり、近所の子どもたちの習わせるなど、剣術普及にも努めたという。 現夢による植林始まりは、まず鶴ヶ城であった。現夢は城の近く住んでいたので、松平家からその手入れ任せられる当時城跡には馬場以外にほとんどはなかったが、1908年明治41年城跡近く陸軍歩兵連隊設置され記念に同志とともに1000本に及ぶソメイヨシノ植えたのが始まりである。後に会津若松市内の墓山と並ぶ松平家霊廟猪苗代町見禰山にもスギ植林行っている。 その後1888年明治21年)の磐梯山噴火に伴う膨大な岩屑なだれ覆われ数十年間荒地のままだった裏磐梯を、もう一度野鳥さえずる変えたい願い、約2年をかけて気の遠くなるような1340haに及ぶ植林なしとげついにはこの地の払い下げ受けた20世紀初といえば日本各地でようやく幹線鉄道開通しだしたばかりである。遠藤現夢1914年大正3年)に全通したばかりの磐越西線開通当時岩越線」)で、アカマツ5万本・ウルシ2万本・スギ3本、苗木合計10万本を新潟方面から運び、さらに猪苗代からは馬車裏磐梯方面運んだのであるが、当然岩屑なだれ地帯はかつての道路などは埋没したままであり至るところ大きな岩がごろごろしており、あるいは泥濘化した荒地新たに道路造りながらの前進は非常な困難を極めたまた、植林に関する知識中村弥六協力得て豪雪覆われる冬も柳沼近く番小屋立てて齋藤丹之丞が中心となって、その苗木生長見守っていた。そんな出費重なりやがては本業傾きだしたという。 さらに遠藤森林組合結成しさらなる緑化活動従事するが、その中で磐梯山の旧噴火口注水して温泉にするいわゆる造成温泉事業をはじめ、成功するもこれが組合法規触れて不評買ってしまう。そうして苦悶の末に病に倒れ1934年昭和9年)、この世去った享年73

※この「現夢の一生」の解説は、「遠藤現夢」の解説の一部です。
「現夢の一生」を含む「遠藤現夢」の記事については、「遠藤現夢」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「現夢の一生」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

現夢の一生のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



現夢の一生のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの遠藤現夢 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS